馬場駿/木内光夫の創作

五行独白 : じつはこの作品、第41回静岡県芸術祭「戯曲・シナリオ部門」
に応募している。最終選考対象の2作品まで残り、「会話等の巧みな処理
に対して」惜しいかな「リアリティに欠けていて実感が乏しい」(選評)として、
芸術祭賞を逃している。自分はこの人のために何もできない、と知ったとき
人は愛情の出口を見失うのではないか。それを描きたかった記憶がある。


 



  脚本「刻をつづれば」

                  
                  

  
   松川 亜弓(24)
   同    (15)少女時代
   松川 賢一(45)
   守谷佳菜子(42)
   磯辺 孝則(45)
   橘  吾郎(29)
   屋台の親爺(65位)

   渓谷の観光客
   式場の係の女性
   土産物屋の女店主







(FI)〇松川家・全景(夜)
   東京の小さな衛星都市の新興住宅地の一角にある木
   造二階建が松川の家。門の周辺に僅かな植木がある
   だけの余裕のない造り。

〇同・賢一の部屋(一階)(夜)
   古びたアルバムに写っている賢一(20)と佳菜子
   (17)の写真。
   アルバムをめくりながら佳菜子の写った写真をつぎ
   つぎに抜き取っていく松川亜弓(24)の手。
   床に落ちているウエディングドレスを着た佳菜子の
   写真。亜弓の素足がそれを踏み躙る。
   冷たく沈んだ亜弓の顔。
   壁全体に広がる本棚。その一角に戻される賢一のア
   ルバム。

〇渓谷
   渓流……時の流れを語るような。
   燃えるような紅葉。その重なり。
T「刻をつづれば」

〇土産物屋・店内
   休憩所を兼ねた土産物屋で忙しそうに働いている守
   谷佳菜子(42)。
   中年の観光客、佳菜子に近付いてきて土産の饅頭を
   指し、
観光客「うまいのか、これ」
佳菜子「はい、もみじの形と色がきれいでお味の方も評判
 です」
観光客「あんたの味とどっちが上だい?」
   佳菜子、エプロンを握って後退りをしていく。
観光客「すぐ近くの旅館なんだ、いいだろ、いくらだい?
 あんたの饅頭」
佳菜子「ご冗談を……」
観光客「ちぇっ、かっこつけやがって」
   何度も振り返りながら観光客、去る。
   唇を噛む佳菜子。
   紅葉の赤、赤、赤。

〇ガード下の屋台(都内)(夜)
   『じじいの酒』と入った赤提灯。
   松川賢一(45)と磯辺孝則(45)の背中が並ん
   でいる。
   目を丸くしている屋台の親爺。
磯辺「俺の聞き違いか? それともいま通ってった電車の
 音のいたずらか? もう二度と言うなよ、許さんぞ」
賢一「亜弓が女に見えるんだ、白い指先、うなじ、唇、ふ
 くらはぎ……」
磯辺「やめろ、と言ってるんだ。もうすぐ嫁ぐんだぞ、亜
 弓は」
   磯辺、賢一のネクタイをつかんで、
磯辺「殴られたいのか」
賢一「よせよ、親爺さんがびっくりしてる」
磯辺「おまえの言葉にだよ、驚いてるのは。ねえ、親爺さ
 ん」
   親爺、唾を呑むようにうなずく。
賢一「特製じじいの酒、もう一杯」
磯辺「冗談じゃなく、そういう話は文学の講義だけにしろ。
 あの亜弓をおまえがそういう目で見てるなんて考えたく
 もない」
   磯辺、賢一のネクタイから手を離す。
賢一「亜弓の方が女として接しているのかもしれない。そ
 んな気がする」
   磯辺が怒鳴ろうとするのを手で制して磯辺のグラス
   にビールを注ぐ賢一。
磯辺「積極的に迫るのか父親のおまえに、たとえばバスタ
 オル姿でとか」
   磯辺、半ば羨望の眼差し。
賢一「バカ、そんなことをする子か、世間が疑っても、俺
 がそうだと言っても、おまえだけは疑うな。いいな?」
磯辺「そ、そう、その通り。亜弓は俺にとっても娘みたい
 なもんだ。いい子だ。きれいになった……考えてみりゃ
 あ……」
賢一「親爺さん、こどもは?」
  親爺、曖昧に笑う。
磯辺「おい、話をそらすな、悪いくせだ」
賢一「おまえのからみ酒よりはマシだ」
磯辺「男手一つでおまえも良くあそこまで育てたよ。手足
 が長いってだけの若い吾郎に抱かれてんのかって思った
 ら、そんな妄想の一回や二回は許容範囲かもな」
賢一「そんな言い方はよせ」
磯辺「いまどきの子だよ、当然してる」
賢一「してるよ、橘くんは結婚する相手だ。だからって口
 にすべきじゃないだろ、バカヤロ。妄想だってそうだ」
磯辺「言い切れるか? 亜弓のからだを想ったことが無い
 って……俺はあるぜ。もうパンツ下ろしてオシッコさせ
 てやった頃の亜弓じゃないんだ」
賢一「何言ってんだ、大丈夫か? おまえ」

〇歓楽街・ピンクサロンの前(夜)
   磯辺、賢一の手を引いて店の中へ入ろうとしている。
   嫌がる賢一の顔。
磯辺「(酔って)いいから、今夜は俺にまかせろって。だい
 たい十年も二十年も独りでいるから狂いが出るんだ。た
 まってんだ、おまえは。バカして、女遊びして、あした
 は良きパパ、な? それでいこうって!」
賢一「大声で言うな、バカ」
磯辺「いいからきょうは女。なつかしいなぁ僅かな金を握
 り締めて、胸をバクバクさせて遊んだ学生時代そのまま
 だ」
賢一「分かった分かった。亜弓が心配するから電話だけは
 掛けさせてくれ」
磯辺「それが異常だって言うんだ。亜弓はおまえの女房じ
 ゃない、娘なんだ。世間の正常な関係なら、父親が一週
 間帰らなくたって娘なんか気にもとめないぜ。さぁ、早
 くそうなろうぜ。女、女」
   店の中に消えていく二人。

〇松川家・ダイニングキッチン(夜)
   夕食の用意ができているテーブル。二階からパジャ
   マ姿で下りてきて壁の時計を見る亜弓。
   午前三時を指している時計。
   水差しを用意してテーブルに置き、小首を傾げなが
   ら二階に上がる亜弓。

〇結婚式場・試着室
   ウエディングドレスを試着している亜弓。
   係の女性が亜弓の周りを回ってからドアの方へ向か
   う。
係の女性「どうぞ」
   橘吾郎(29)入ってきて息を呑む。
係の女性「このお仕事長いんですけど、久しぶりですねぇ、
 これだけきれいな花嫁さんを見るのは」
   精一杯笑おうとする亜弓。
橘「何だよ、その顔は。もっと嬉しそうに笑えよ、花嫁衣
 装に負けてるぞ」
係の女性「いけません、そんなことおっしゃっちゃあ」
   橘、係の女性を押しながら、
橘「出てってくれ、頼む。二人きりにして欲しいんだ」
亜弓「いいのよ、居て。まだ二人きりにしないで、お願い」
橘「亜弓……そのまだって何」
亜弓「恐いの」
橘「恐い? ぼくがか? 夫になる男だぜ、おれたち結婚
 するんだろ、違うのか?」
亜弓「壊しそうで……恐いの……」
橘「壊すんじゃなくて創るんだろ、亜弓、いったいどうし
 ちゃったんだ。自分関係の招待状全部隠したり、挙式延
ばせって無理言ったり」
亜弓「……」
   亜弓の目から涙がこぼれ落ちる。

〇建築現場
   背広にヘルメットの磯辺、空調工事の下請け業者に
図面を広げて指示している。
   携帯電話のベルが鳴り、磯辺、話を中断して電話を
耳に当てる。
磯辺「なんだ亜弓か、どうした?」

〇名曲喫茶「アマデウス」・店内(夕)
   亜弓の何を見つめているのか分からないような目。
その視線が動いて、笑顔が生まれる。
   近付いてくる磯辺。
   小さく手を振る亜弓。
磯辺「初体験だな、この雰囲気。よく来るのか、こういう
とこ」
   と、磯辺、座る。
亜弓「うん、賢ちゃんと何度か」
磯辺「いいなぁ、今度俺もタカちゃんて呼んでくれよ。じ
つに新鮮な感じがする」
亜弓「だめ。誰にでも使ったら特別な意味がなくなっちゃ 
 う」
磯辺「おいおい、俺はその他大勢かい?」
亜弓「違うけど、オジ様はオジ様がいい」
   ウエイトレス、来る。
磯辺「(微笑して)コーヒー、ブラックで」   
ウエイトレス、無言で去る。
磯辺「なってねえな、教育が」
亜弓「この程度で腹立ててたら、東京暮しはできないわよ、
オジ様」
磯辺「三代続いた江戸っ子の俺に言うかぁ」
亜弓「え? 賢ちゃんと同じ仙台生まれじゃないの、だっ
て中学からずっと一緒の学校でしょ?」
磯辺「松川は転校生だよ、広瀬川で産湯につかった宮城県
人、よくいじめてやったっけな、頭が良すぎるって理由で」
亜弓「ひどいなぁ……」
   二人、しばらく黙る。
磯辺「遅いなぁ」
   磯辺、飲みかけの亜弓のコーヒーを取って飲み干す。
亜弓「紅が付くわよ」
磯辺「今のところ、やきもちやいてくれる人もいないし」
亜弓「これからもずっと独りで?」
磯辺「迷ってるのか、吾郎との結婚」
亜弓「ていうかぁ、もう少し賢ちゃんと一緒に暮らていた
いの」
磯辺「男、なのか……つまり、亜弓の中で松川は……いや、
その、セックス云々じゃなくて、プラトニックで」
亜弓「抱かれたいって……思うこと、ある」 
  磯辺、口をパクリとする。
磯辺「吾郎とは、つまり、したのか?」
   亜弓、コクリとうなずく。
磯辺「下手なのか、あいつ」
   亜弓、哀しそうな顔。
磯辺「ごめん、そういうことじゃないよな」
亜弓「オジ様、愛って何」
磯辺「うーん……(急に笑って)俺に聞くかぁ、それを。
俺が聞きたいよ……」
亜弓「わたしのここ」
   と、亜弓、胸に掌を当てて、
亜弓「いつも賢ちゃんのことで一杯なの」
磯辺「分かるけど、いや、分かるような気がするけど、あ
いつは実の父親なんだ、亜弓の……頼むよ、二番目の吾郎
で我慢してくれって。仲人として、この通り」
   磯辺、ガクッと頭を下げる。

〇松川家・賢一の部屋(夜)
   虫が食ったように所々写真が抜けているアルバムを
凝視している賢一。
   傍らに足で踏み躙られたクシャクシャの佳菜子の写
真。
   顔を両の掌で覆う賢一。
亜弓(15)の声「その女はねえ、賢ちゃんを足で踏み付
けにしたのよ、そんな女の写真をいつまでも持ってるなん
て信じられない。捨てて。捨ててよぉ、賢ちゃん」

〇回想
   白い敷布団カバーで作ったウエディングドレスを身
につけた亜弓(15)満面に笑みを湛えて立っている。
亜弓「裁縫で何を作ってもいいっていうからこれにしちゃ
った。どう、似合うでしょ? 賢ちゃん、わたし、はたち
 になったら結婚してあげるから待っててね。いまでも気
 持ちは賢ちゃんのお嫁さんだからね」

〇松川家・賢一の部屋(夜)
   潤んだ目の賢一。
賢一「そんな約束、ウンて言わなかったぞ、亜弓」
   急にドアが開いて、笑顔の亜弓、入ってくる。
亜弓「ただいまぁ、賢ちゃん。ごはん、ちゃんと食べたん
 だ、えらい!」   
賢一慌てて目頭をこする。
賢一「ああ。亜弓の酢豚は絶品だしな」
亜弓「このごろレパートリー広げ―――」
   アルバムと賢一の顔を見て、亜弓の顔笑みを失う。
亜弓「また思い出に浸ってるぅ、わたしを産みっぱなしに 
 して、婚約したばかりの賢ちゃんを捨てて逃げ出した人
 でしょ、どこがいいの? そんなバカ女の!」
賢一「亜弓、お母さんをそんなふうに言うもんじゃない、
 きっと何かわけが―――」
亜弓「どこが母親なの、セックスして産むだけならハムス
 ターだってするわよ!」
   賢一、亜弓の頬を打つ。
   頬を押さえ目を丸くする亜弓。その目から涙が溢れ
   出る。
   自分の掌と亜弓の顔を交互に見て悔いを露にする賢一。
亜弓「わたし行く、吾郎さんの所へ行く……それでいいん
 でしょ……」
賢一「そんな気持ちでいくのか、仕方なしにいくのか、亜
 弓、違うだろ? 彼が好きだから結婚するんだろう?」
亜弓「安心するんでしょ? それで。賢ちゃんもオジ様も。
 結婚なんてその程度ってことよ、わたしの無責任はあの
 女譲りだから叱らないで。あの女を赦してわたしをぶつ
 なんて、賢ちゃん矛盾してる……」
   亜弓、後退りしながら出ていく。
賢一「何が心理学者なもんか」
   賢一、両の拳でドンと机を叩く。

〇吾郎のマンション
   都内の道路沿いの古いマンション。一DK。部屋中
   に散乱しているCD、VHS、雑誌の類。PCの奥
   にセミダブルのベッド。
   パジャマ姿で歯を磨いている吾郎。
   けたたましく鳴る目覚まし時計。針は前十時。
   飛んできて足の裏で止める吾郎。
   とたんに鳴りだすチャイム。
吾郎「うるせーな、それでなくとも二日酔いで頭ガンガン
 してんのに」
   ハブラシを口に入れたままドアを開ける吾郎。
   圧倒的な光の中に亜弓、大きなバッグを持って立っ
   ている。
亜弓「よかった、お休みの日で」
吾郎「ま、まさか、家出?」
   小さく笑ってうなずく亜弓。
吾郎「(小声で)嘘だろ」
   吾郎の口からハブラシが落ちる。

〇小村設備(株)本社・工事課
   図面に埋もれて磯辺、しきりにタバコをふかしてい
   る。
同僚の声「課長、二番に外線です」
磯辺「おう、(小声になって)どこのピンサロのおねえちゃ
 んかな、と」
   受話器を取った磯辺、驚く。
磯辺「悪いけど二、三日無理。出張なんだ 相手があるこ
 となんで変更できない。一大事はおまえの声で分かるっ
 て。大丈夫! 亜弓のいくとこは吾郎のマンションしか
 ないって。結婚をゆるした相手だ、知らない男の所へ転
 がり込んだってわけじゃない。いい機会だ、お互い頭を
 冷やせ。帰ってきたらすぐおまえに電話するよ、じゃぁ
 な」
   磯辺、鼻に皺を寄せて電話を切る。
磯辺「妬ける、妬ける。まるで恋人同士だなあの親子は。
 しかし、亜弓が俺の子だったら同じかもな、いや、もっ
 とか……ハムスターみたいに自分の子を食べちゃったり
 してな……それはないか」
   磯辺、首を小さく振る。

〇私立大学講堂
   ちらほら学生が受講している。
   賢一、張り合いがなさそうに心理学の講義をしてい
   る。
亜弓の声「賢ちゃん、ちゃんと食事してね。まだ丸二日し
 か経っていないのに、そんなことばっかり気にしていま
 す。雑誌社のバイトは風邪を理由に休んでいます。だか
 ら一日中吾郎の部屋にいて帰りを待ち、夕食を食べ、テ
 レビを視て、十二時がきたらすっ裸になって二人で寝ま
 す。ひととき燃えるように体が熱くて、それが終わると
 今までの自分が嘘のように心が冷えます。こんなものが
 愛のはずがない、そう思えてくるんです、そのたびに」

〇高速道路
   を、磯辺、社用車で走っている。
亜弓の声「わたしが愛だと思えるのはたった一つ。母親代
 わりのお婆ちゃんが死んでからの十五年間、大事なお仕
 事を抱えながら必死でパパとママの両方の役目を果たし
 てくれた賢ちゃんのわたしへの心だけです。オジ様も好
 きだけれど賢ちゃんにはとうていかないません」

〇渓谷の土産物屋・店内
   女店主の前で佳菜子、俯いている。
女店主「ごめんなさいね、三年以上もいてくれたあなたに
 こんな仕打ちしたくはないんだけど、ご覧のとおりの状
 態でしょ、お給料や借り上げの寮費が大きな負担になっ
 ちゃって。ううん、すぐにとは言わないわよ、今月一杯
 で。ね?」
佳菜子「わかりました。わたしこそお世話になりっぱなし
 で。保証人もなしに雇って戴いたこと、本当に感謝して
 います」
女店主「そう言ってもらうと気持ちがグッと楽になるわ。
 あ、それとね、うちのバカ亭主があなたに色目使ってる
 ことと今度の件は全然関係ないから、誤解しないでね」
   唇を噛んで頭を下げる佳菜子。
磯辺の声「ちょっとすみませーん」
女店主「佳菜子さん、お客さん。じゃあね」   
女店主、奥へ去る。
   その背中を見つめる佳菜子。
磯辺の声「この辺りにホテル渓流荘ってありませんか。空
 調工事してるんですけど、初めて来て道に迷っちゃって」
佳菜子「あ、はーい」
   と、佳菜子、気を取り直して小走りに店先に出る。
   紅葉をバックに磯辺、立っている。
磯辺「すみません、帰りにここでお土産買いますから……
 (絶句)」
   目を丸くして棒立ちになる佳菜子。
磯辺「佳菜ちゃん……」
   店を飛び出し、川沿いの舗装路を走りだす佳菜子。
   磯辺、慌てて追い始める。

〇小さな橋の上
   佳菜子、走ってくる。
   その後ろに追ってくる磯辺の姿。
磯辺「佳菜ちゃん、賢一、今でも待ってるよ 君のこと、
ずっと愛してたんだ、絶対!」   
   佳菜子、橋の中央で立ち止まり、息を弾ませて振り
   返る。
   その哀しそうな表情。
   磯辺、追い付いて止まる。
佳菜子「それを言うの、孝ちゃんが」
磯辺「亜弓も、君と賢一の子も、二十四だ、もうすぐ、結
 婚する」
   磯辺、橋の手摺りに手を掛けて呼吸を整える。
佳菜子「その子、賢ちゃんの子じゃないわ、あなたの子よ」
磯辺「え?」
   佳菜子、すーっと倒れるように橋から姿を消す。

〇橋
   俯瞰。
   佳菜子、川に落ちていく。
磯辺の声「佳菜ちゃーん!」

〇小さな病院
   ベッドに寝ている佳菜子。
磯辺の声「佳菜ちゃん」
   佳菜子、ゆっくりと目を開ける。
   だんだんはっきりしていく磯辺の顔。
磯辺「ちょうどあそこだけ川が深くて……死んじゃいけな
 いってことだよ……俺、夢中 で飛び込んで、あれ? 深
 いやって……」
佳菜子「助けてくれたの」
磯辺「うん……違うな、一緒に助けられてやった?(と照
 れ笑いする)」
   佳菜子、力なく微笑する。
磯辺「警察、最初心中だと思ったらしい」
   佳菜子、笑みを止める。
磯辺「その後で土産屋のおかみが来て、わたしのせいだっ
 て取り乱して、極め付きは、追い駆けっこを見てた地元
 の人が言ったやつ、高利貸しが都会から来て可哀相に死
 ねって迫った……どれがいい?」
佳菜子「あなたの、孝ちゃんの子なの」
磯辺「うん、そういうことにしておこう」
   佳菜子の目、涙でふくらむ。
磯辺「逃げてるんじゃないんだ」
   佳菜子、二度三度と小さく頷く。
磯辺「あのときの?」
   大きく頷く佳菜子。
磯辺「たった一度でなぁ……」
   磯辺、天井を仰ぎ、目を閉じる。
佳菜子「苦しかった……言えなくて……賢ちゃんが優しく
 してくれるのが地獄だった……逃げるしかなかったの…
 …」
磯辺「知らなかった。ごめん」
佳菜子「ううん、誰のせいでもない……わたしの中の女の
 せい、思い上りのせい。その子は・・・」
磯辺「亜弓」
佳菜子「あゆみは、そんなわたしを叱りに出てきたのね、
 きっと」
磯辺「(呟き)亜弓は何も知らないはずなのに、誰の子かを
 全身で感じてるんだ」
佳菜子「え?」
磯辺「亜弓、賢一を男として愛してる」
佳菜子「だって、結婚するって」
磯辺「いまも相手の男の所に居るけど、亜弓の中ではそん
 なこと関係ないんだ」
佳菜子「父親っ子ってことじゃなくて?」
磯辺「うん……」
   佳菜子、ベッドカバーを引いて顔の半分を隠す。目
   が不安を表している。

〇吾郎のマンション(朝)
   亜弓と吾郎、ベッドの中。亜弓の目だけが見開かれ
   ている。
   ソーッとベッドから降りる亜弓の足。

〇同・表(朝)
   亜弓、出てきて、タクシーを拾う。

〇同(朝)
   ベッドで独り眠っている吾郎。
   PC画面――亜弓のメッセージが残っている。『賢
   ちゃんのところへ戻ります。亜弓』

〇キャンパス
   足元のプラタナスの落葉を蹴散らしながら賢一と磯
   辺、歩いて来る。
賢一「今頃になって仲人を降りるって奴があるか、亜弓の
 結婚なんだぞ」
磯辺「だからだ」
   と、言って磯辺、目を瞑る。
賢一「俺に文句があるなら直接俺に当たれ。いま幸せにな
 ろうとしてる亜弓に当たることはないだろ、ええ!」
磯辺「俺なんかより、この大学にお偉いさんが山ほどい
 るだろうよ、吾郎にも亜弓にもハクがつくような……悪
 いよ確かに、最初からそういうアドバイスをすべきだっ
 た。親友のおまえから頼まれて、大好きな亜弓の結婚て
 ことで、つい……」
賢一「おまえ、どこか具合でも悪いのか」
磯辺「何だ、薮から棒に」
賢一「きょうみたいに謙虚なおまえを見た記憶がない」
磯辺「ふざけるな、ばか」
賢一「何があったんだ?」
磯辺「別に……」
   飲料の自動販売機が立っている。
賢一「マムシ入りのドリンクあったかな」
磯辺「おいおい」
賢一「とにかく俺は認めんからな」
   磯辺、小さく首を振る。
磯辺「イヤになったんだよ! 亜弓に振り回されるのが」
賢一「なにぃ(顔色が変わる)」
磯辺「だってそうじゃねえか。吾郎と結婚しますって言っ
 たその口で賢ちゃんが好き、マジで悩んでりゃあ家出て
 吾郎と寝てる、良かったなと思ってりゃあ、また賢ちゃ
 んちへ出戻りだ。自分に正直って言やぁ聞こえはいいが、
 二十四にもなって純真なんだかバカなんだか」
   賢一、磯辺を平手打ちする。
   一旦よろけて踏張り、手の甲で切れた唇を拭う磯辺。
   自分の掌を見て目を瞬く賢一。
磯辺「亜弓には俺から言う……」
   磯辺の目、涙でふくらんでいる。

〇松川家・亜弓の部屋(夜)
   亜弓、バスタオルで胸から下を巻いた格好でペディ
   キュアを塗っている。
   勢い良くドアが開いて賢一、入ってくるなり後ろを
   向く。
亜弓「いいのに」
   と、亜弓、微笑する。
賢一「吾郎君との結婚な、急げ、もう我侭は言わせないか
 らな。話はそれだけだ」
   賢一、廊下に出る。
亜弓「いつもの賢ちゃんじゃないなぁ」
賢一「あ、それから仲人な、うちの大学の学部長に変える
 かも。じゃ、おやすみ」
亜弓「オジ様は?」
   ドアが閉まる。
亜弓「我が家に封建時代来る? まさかね。賢ちゃんも虫
 の居所悪い日あるんだ?」
   首を傾げる亜弓。

〇新宿駅構内(朝)
   乗降客の脚、脚、脚の群れ。
吾郎の声「それはないですよ、亜弓は娘同然て、あれ嘘な
 んですか!」
   磯辺の顔、歪む。
   その後ろに見え隠れする吾郎の顔。
吾郎「俺でしょ、何か気に入らないことしたんだ、きっと。
 俺常識知らねえし、どっかで、それカッコいいって勘違
 いしてるし。だけど、それって亜弓に関係ないでしょ、
 磯部さんにそっぽ向かれたら、あいつが可哀相ですよ、
 ねえ、磯部さん」
   磯辺、泣きだしそうな顔。
吾郎「このままになったら俺、恨みますよ、赦さないっす
 よ」
   吾郎の顔からどんどん離れて、手前に突き進んでく
   る磯辺の顔。
   通勤者の足音、軍靴のそれのように響く。
   
〇ガード下の屋台
   親爺の穏やかな目。
   徳利を数本並べて頭をぐらぐらさせている磯辺。
磯辺「間違いのもとは賢一が俺みたいな男を親友にしたっ
 てことさ。親友が婚約してる相手と寝ちまうような俺と
 よ。親爺、聞いてる?」
親爺「ああ、きょうのあんた見てりゃ、電信柱だって話相
 手になってくれるよ」
磯辺「へっ、うまいこと言うじゃないの。お礼に金落とし
 てくよ、じじい! の酒、もう一本」
   親爺、あいた徳利に水を注いで燗にしようとする。
磯辺「おいおい、特製じじいの酒って、そうやって仕込む
 のか? 少なくとも目の前で堂々とやるなよ、まいる
 なぁ」
   親爺、そのまま徳利を湯に浸けて、
親爺「上客のあんたを泣き上戸にゃしたくないんでね、少
 し醒ましてやらんと」
   磯辺、何度も頷く。
磯辺「親爺も見てて分かるだろ、賢一は若い時分からカッ
 コいいんだ。それに、あの誠実の上に大って字が何個も
 付きそうな人間性、俺は思ったよ、こいつと人生一緒に
 やりてえって、変な意味じゃなくてさ。でも考えてみ
 りゃあ、心のどっかでそういう賢一への劣等感が育って
 たんだな。賢一が初めて佳菜子を紹介してくれたときも
 打ちのめされたっけ。かわいくて、おとなしくて、優し
 そうで」
   親爺、小皿に漬物をのせて出す。
磯辺「きれいごと抜きで言やぁ、俺が欲しいって思ったよ、
 佳菜子を。抱きたいって……だからってホントに盗っち
 ゃってどうする? ええ?(鼻水をすする)しかもその
 ときできた子を賢一に二十四年間も育てさせて、なぁ、
 赦すか? 親爺が賢一なら、亜弓なら。なぁ、赦してく
 れるか?」
   親爺、腕組みをして考える。
磯辺「だから黙ってる。もう、これ以上はないっていう『い
 まさら』なんだ。仲人放り投げて、嫌われて、絶交して
 もらうしかねえのさ、寝ても覚めても、寝ないで考えて
 も……いまこうしてても、賢一がひょっこり立ち寄るん
 じゃないかって、背中がビクビクしてんだ(顔を伏せる)」
親爺「一人で来たことはないよ、一度も」
   磯辺、顔を上げる。
親爺「あんたと一緒だからあの人はここに来るんだ。じじ
 いの酒が目的でも、おでんの具が目的でもなくて、あん
 たとの時間を楽しむのが目的でな」
   磯辺、コップをあおる。
親爺「逃げなさんな、二度と手に入らないと思うよ。それ
 とも、俺みたいに木枯らしに隠れて独り言って生活があ
 こがれかい?」
磯辺「親爺、さん……」
親爺「その女の子だって強いよ、たぶん。あんたが考えて
 る何倍もね」
   目を瞬く磯辺。
   親爺、自嘲気味に頬を歪める。
   モーツァルトの曲、被る。

〇名曲喫茶「アマデウス」
   磯辺の顔、ポカンとしている。
   前シーンの曲、そのまま。
   その磯辺の前に座っていた亜弓、両手を高く挙げて、
   満面に笑み。
亜弓「最高のエピローグだわ」
   磯辺、怪訝な顔、一際。
亜弓「わたし、ずっとそうなるって思ってたわ、もちろん
 何となくだけど。そう、オジ様が実はパパで、賢ちゃん
 はその親友ってだけでわたしとは血がつながってない。
 もう、嬉しい!」
磯辺「怒らないのか? ずっと父親らしいこともしないで、
 賢一に育てさせて――」
亜弓「ううん、世間の父親よりずっと父親してた」
磯辺「俺がか?」
亜弓「うん、オジ様って呼ばずにこれからパパって呼ぶ、
 それだけの違い? これからもよろしくね、パパ」
   亜弓、ペコリと頭を下げる。
   磯辺、つられて辞儀をする。
磯辺「だけど俺、賢一を裏切って婚約者を寝取った男だぞ、
 いいのか?」
亜弓「そのおかげで賢ちゃん、いまだに独身なんだから、
 かえって感謝よ。何かヘンだけど、とってもハッピィじ
 ゃない」
   亜弓、肩を窄めて、座る。
   笑顔でため息をつく磯辺。
亜弓「で、その女とパパ、いつ結婚するの」
磯辺「その女って……亜弓の」
亜弓「ママとか母親とか言わないでよね」
   亜弓、表情が一変する。
磯辺「しかし、たったいま赦してくれたんじゃなかったの
 か?」
亜弓「パパはね、全然知らなかったんだし。それなのに、
 ずっとわたしの傍にいて親同然にいろいろ助けてくれた
 わ。でも、その女は違うわ、賢ちゃんを裏切り、わたし
 を見捨ててパパにも打ち明けず、自分を護るために、そ
 れだけのために逃げ出したのよ。絶対赦せない……赦さ
 ないわ」
磯辺「亜弓……」
亜弓「でも、結婚はしてね、その女と」
磯辺「ええ?」
亜弓「賢ちゃん、いまでもその女のこと想ってる。傍にい
 ない分、美化しちゃって」
磯辺「それが分かってて……」
亜弓「賢ちゃんは渡さないわよ、絶対」
磯辺「賢一、赦さないだろうな、俺を」
亜弓「わたしが最初? この話」
磯辺「あ、ああ」
   亜弓、真剣な目で、考え込む。

〇佳菜子のアパート
   六畳一間に小さな台所。洗濯機が踏込みの半分を占
   領している。昔ながらのガラス窓の手前に小さな洗
   濯物掛け。亜弓の射るような目。
   佳菜子、落ち着かない様子。
亜弓「ずっとここ? わたしを捨ててから」
佳菜子「(首を振って)あちこち……」
亜弓「罪の意識、すこしはあったの?」
佳菜子「札幌へ行っても、別府に隠れても、佐渡に渡って
 も……だめ……」
亜弓「そうよね、自分からは逃げられないもの。結局三人
  とも裏切ったんだからね、わかってる? ほんとに」
   佳菜子、激しくうなずき、目から一気に涙を流す。
亜弓「賢ちゃんが一番可哀相。わたしはいいの、いまここ
 で言ったって信じてもらえないくらい可愛がってもらっ
 たんだから。ただあなたのお腹から生まれたってだけの
 理由で愛されたってことになるの、賢ちゃんの子どもじ
 ゃなかったってことは。それがくやしい……だってわた
 しへの気持ちはあなたへの愛情ってことでしょう?」
佳菜子「それは違います(と涙を拭う)」
亜弓「違わない! 結果的にそうなるのよ。それともなに、
 賢ちゃんは初めからわたしがオジ様、ううんパパの子だ
 って知ってたとでも言うわけ?」
佳菜子「……」
亜弓「んな訳ないわよね、そうなら賢ちゃんがパパを裏
 切って黙ってたことになっちゃう……」
佳菜子「(苦しそうに)……」
亜弓「もういいわ。条件だけ言う。パパと正式に結婚して。
 式はわたしと吾郎と一緒にダブルウェディングで。パパ
 はわたしが帰ったら正式にプロポーズすることになって
 るの、絶対辞退しないこと、いい?」
佳菜子「許してくれるの」
亜弓「ううん。でも、賢ちゃんのために、二人がわたしの
 両親だって認知してあげる。わたしが許したら賢ちゃん、
 独りになっちゃうじゃない。それくらいのこと、わかり
 なさいよ」
佳菜子「亜弓……」
亜弓「呼び捨てにしないで!」
佳菜子「一つだけ聞いて……大好きな人に向かい合って、
 自分にはこの人に見合うものがなにもないって知ったと
 き……あなたに解るかしら、逃げ出すことが愛してると
 いう唯一の告白、そのみじめさが……」
亜弓「解りたくないわ。どんな理屈をつけてもあなたが可
 愛がったのは自分だけ」
佳菜子「……そうね。ごめんなさい……」

〇小村設備(株)本社・工事課
   磯辺、タバコを灰皿に擦り付けて消してから受話器
   を取る。プッシュしては途中で止め、何度も繰り返
   す。
磯辺「松川に殴られるか、いよいよ」
   磯辺、うなずいて受話器を取る。

〇松川家・賢一の部屋(夜)
   古びたアルバムの空白部分に成長した亜弓の写真を
   次々と差し込んでいく賢一。その虚ろな目。
   傍らの酒の入ったグラス。
   足元の一升壜。

〇結婚式場・ロビー
  亜弓と係の女性、並んでソファに腰掛けて話している。
  係の女性、特大の目をして驚く。

〇松川家・ダイニングキッチン(夜)
   亜弓、鍋料理を作っている。
   賢一、テーブルに新聞を乗せて読んでいる。
亜弓「久しぶりね、こういう場面」
賢一「ああ、そういえば……(微笑)」  
亜弓「若奥さんて感じで好きなんだ、へへ」
賢一「もうすぐだな、挙式」
亜弓「うん、きっとびっくりすると思う」
   亜弓、くるりと回って賢一を見る。
賢一「きれいな花嫁姿でか? しょってる」
亜弓「たぶん、賢ちゃんも初めての経験で、うーん、酔い
 痴れちゃうかも」
賢一「はいはい、泣かないようにドライアイ状態にしてお
 くから」
   亜弓、噴いている土鍋を持とうとして
亜弓「あちちち!」
賢一「亜弓! ばか、おまえ……」
   賢一、素早く寄って、赤くなった亜弓の親指をくわ
   える。
亜弓「ドラマに出てくるお母さんみたい」
   賢一、蛇口をひねって亜弓の指を流水にさらす。
賢一「隣のうちでアロエもらってくるから」
亜弓「ううん、大丈夫。それより……」
   と、亜弓、賢一の胸に顔を埋める。
   噴いて湯を溢しだした土鍋。
賢一「え? どうした……」
亜弓「少しの間こうしてていい?」
   賢一、戸惑った表情。
亜弓「あったかーい。賢ちゃんて心の温度が高いんだ、き
 っと」
賢一「……亜弓」
   亜弓の肩が小さく揺れ始める。
   亜弓の顔を見ようとする賢一。
亜弓「だめ」
   回した手に力を入れる亜弓。
亜弓「泣いて決心するんだから、だめ」
   賢一、亜弓を抱き締める。
   噴いた湯で炎が消えたガスコンロ。

〇結婚式場・ロビー
   『橘家、松川家、結婚披露宴会場』の立て看板。大
   勢の拍手、被る。

〇同・披露宴会場
   暗転した会場をスポットライトが動き回りながら一
   点に集中していく。
司会の声「いよいよ新郎新婦の登場です、皆 様一層の拍
 手をお願いいたします」
   ウエディングマーチにのって亜弓と吾郎が登場し、
   壇の左側の席に着く。
司会の声「本日はもう一組の新郎新婦がこの披露宴で入籍
 のご報告をいたします。新婦亜弓さんのご両親です。皆
 様、温かい激励の拍手をお願いいたします」
   賢一の目、ゆっくりと閉じる。
   会場にざわめき。
   反対側から亜弓よりも控えめなウエディングドレス
   を着た佳菜子、磯辺に導かれて出てくる。
   パラパラとした拍手。その音に勝る私語の波。
   立往生する佳菜子と磯辺。
   賢一、亜弓を見て、うなずく。
   亜弓、立って、大きく拍手を始める。
   吾郎も立って拍手をする。
司会の声「複雑な事情でこの佳き日の直前まで、実の両親
 であることを打ち明けられなかったお二人ですが、新婦
 を影になり日向になり支えていらしたのです。このまま
 では新婦亜弓さんも可哀相です。皆さん、どうか温かい
 拍手を!」
   亜弓、涙をふく。
   賢一、中央に出てマイクを取って、
賢一「孝則、おまえが悪い。おまえは堂々としてていいん
 だ。おまえが胸を張って佳菜子さんを、新婦の母親を、
 幸せが棲む場所までリードできなくてどうする。俺は、
 おまえと知り合ってから今日までの三十年近く、おまえ
 を親友と呼び、おまえに親友と想われてきた日々を誇り
 に思う。亜弓の実父はおまえ、認知したのは俺、育てた
 のは俺たち二人の父親、それでいい。出生の秘密に起因
 する運命にもっとも翻弄されたはずの亜弓が、きょうの
 ダブル披露宴を企画した。俺たちはこんなにすばらしい
 娘をもったことに感謝しようじゃないか」
   磯辺、涙ながらに頷く。
賢一「皆さん。わたしが全てを聞かされたのは一週間前の
 ことです。からかわれたとお感じの方もいらっしゃるで
 しょうが、こんなドジなわたしに免じて赦していただき
 たいのです。それから佳菜ちゃん、君が婚約していた俺
 の子ではなく孝則の子を身篭もったのは心を伴って抱か
 れたからだ。浮気じゃない。むしろ学問バカで人の気持
 ちが読めなかった自分を恥じている。そして亜弓を産み、
 一人身を隠したのは二人の男の間で苦しみ抜き、良心の
 呵責に耐えかねたからだと思う。君はそういうタイプだ。
 おそらく何度も亜弓、いや、何と名付けられたかも分か
 らないわが子の姿を見ようとして寄留先から上りの列車
 に乗ったに違いない。いままで独身を通した。俺は、そ
 の一事で全てを水に流したいと思う。佳菜ちゃん、亜弓
 がなつくまで、いままで待った二倍は待って。いま、俺
 がいいたいのはそれだけ……」
   両掌で顔を覆う佳菜子。その肩が大きく揺れている。
賢一「皆さん、一生のお願いです。二組の新郎新婦に励ま
 しの拍手を……このとおりです(深々と頭を下げる)」
   吾郎、亜弓の肩を抱き、
吾郎「すてきだな、亜弓の賢ちゃんて」
   亜弓、溢れる涙を振り落とすように激しく頷く。
   心の篭もった拍手、だんだんと増えて会場中が拍手
   に包まれる。
   磯辺、賢一のもとへ走り寄り、握手をする。
賢一「仲人のはずだったこの孝則が、にわかに一方の新郎
 になってしまいましたので、本日は急遽わたしが双方の
仲人役をつとめさせていただきます」
   拍手。(FO)

(FI)〇渓流
   沿いを歩いている賢一。
佳菜子の声(手紙)「あなたに赦していただき、いまは驚
 きと喜びで一杯です。高校を卒業したばかりのあの頃の
 わたしには あなたがもっていらっしゃる全てが眩しく
 感じられ、憧れが恋心へと進んでいきました。大学を出
 たらすぐにとのあなたの言葉に有頂天になり、婚約まで
 してご両親を困らせたものです。背伸び、一言でいえば
 それに尽きます。わたしは憧れたはずのあなたの頭の良
 さについていけない自分にようやく気付くのです。あな
 たといる時間が長く、そして苦痛にさえ感じ始めた頃、
 あなたが孝則さんを紹介してくれたのです。ごめんなさ
 い、こんな話。わたしが申し上げたかったのは、彼を責
 めないでほしいということ……。わたしが弱くて、彼の
 優しさに見境もなく甘えたせいなのですから。あなたは
 ご存じだったはずです。生まれた子があなたの子ではな
 いということを、彼の子だということを。それなのにあ
 なたは、厳格なお父さまに殴られても、それを口にしよ
 うとはしませんでした。そればかりか、まばゆいばかり
 にきれいな二十四歳に育てあげてくださったとか。わた
 しはいま、あなたの大きさに圧倒されています。しかも
 お目にかかるのは披露宴、いまから震えが止まりません」
女店主の声「お客さん、饅頭にお茶で休憩っていうの、ど
 うですかね」
   賢一、見上げて、
賢一「ええ、ちょっと身も心も冷えたかな」   
   女店主、下品に笑って、
女店主「恋に破れて傷心旅行かねぇ、こんな色男振る女の
 顔がみたいよ、ほんと」
賢一「川面や、この草や土、あなたが立ってるそのアスフ
 ァルトからもその人の温もりが伝わってくるみたいでね」
女店主「女なら一度ぐらいそんなふうに想われてみたい
 わ! じゃ熱いの入れときますから(引っ込む)」
   賢一、大きなため息をつき、ポケットからタバコを
   出す。

〇町内の公園(夜)(回想)
   うなだれている磯辺。
   賢一、急に嗤いだして
賢一「感謝は的外れだろう、ちゃんと亜弓を育てることが
 復讐だったのさ、俺の」
   磯辺、上げた顔が泣きだしそうに。
賢一「やな奴さ、善人面した」
   磯辺、賢一の両肩を掴んで揺すりながら泣きだす。

〇渓流
   タバコの煙を吐き出す賢一。
   自嘲気味な笑い。

〇結婚式場(回想)
   賢一、控室にポツンと立って、ポケットからタバコ
   を出す。
   平服の亜弓、寄ってきて、
亜弓「賢ちゃん、これでもうあの女とは結婚できないから
 ねぇ」
   賢一、くわえたタバコを落とす。
   亜弓、ウインクをして出ていく。

〇渓流沿いの路
   賢一、タバコに火を点ける。
   渓流。
賢一「女は水だな、基本的に」

〇結婚式場・廊下(回想)
   深々と頭を下げる佳菜子。(スローモーション)
                     (FO)

(FI)〇ガード下の屋台(夜)
   親爺、タバコを吸っている。その顔がニヤッと笑う。
   賢一、風呂敷包みを丸椅子に置いてからその隣に腰
   掛ける。
親爺「なつかしいもの、持ってるね」
賢一「重宝だから。裁判官とか検事とか、これ必需品にし
 てるみたい。もっとも検事は近ごろダンボールか」
   賢一、自分で受けて笑う。
   親爺、目で問う。
賢一「いやぁ、違う違う。女の気持ちも人の心も読めない
 心理学のヘボ先生」
親爺「いつもの?」
賢一「(頷いて)あいつは来ないよ、いまごろ新妻の手料理
 で一杯ってとこ。家庭円満は飲み屋の敵ってことさ」
   親爺、笑って酒を出す。
賢一「嬉しそうだね」
親爺「初めてなんだ」
賢一「何が」
親爺「あんたが一人で来たのが」
賢一「それが?」
親爺「それでみんな分かるのさ、あんたのここの大きさも
 ね」
   と、親爺、掌で胸を押さえる。
   賢一、首を傾げる。
親爺「おでん選びな、おごるから」
賢一「ほんとかさ、何か気味悪いなぁ」
   賢一、おでん鍋を覗き込んで嬉しそうに匂いを嗅ぐ。

〇ガードの上(夜)
   を、灯りを列ねた電車が通っていく。



刻をつづれば
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