論文
  能動的ニヒリズムについて
     ニーチェの「権力への意志」より
                
               財津 公江






      目 次
序論‥‥1
第一章 ヨーロッパのニヒリズム‥‥12
第一節 ニヒリズム
第一項 生存のこれまでの価値解釈の帰結としてのニヒリズム‥‥14
第二項 ニヒリズムのその他の諸原因‥‥15
第二節 ヨーロッパのニヒリズムの歴史‥‥30
第二章 これまでの最高価値の批判‥‥36
第一節 宗教の批判‥‥37
第二節 道徳の批判‥‥56
第一項 道徳的価値評価の由来‥‥56
第二項 道徳的理想‥‥65
第三項 道徳の批判への結論的考察‥‥74
第三章 新しい価値定立の原理‥‥75
第一節 自然における権力への意志‥‥75
第一項 機械論的世界解釈‥‥75
第二項 生としての権力への意志‥‥81
第三項 権力への意志および価値の理論‥‥89
結論 現代社会への批判‥‥92

能動的ニヒリズム
―ニーチェの「権力への意志」より―
  序論
 なぜニーチェのニヒリズムに焦点を当てたか、なぜアフォリズムに彩られた彼の難解な哲学に挑戦せずにはいられなかったか、という思いが頭の片隅から消し去れないまま、この難問に突入してしまう魅力をニヒリズムという言葉のニュアンスは持っていた。そして時恰もニヒリズムの時代を思わせる現今の中で、私達に人間性及び思想の変革を求めているニーチェの能動的ニヒリズムへの思いに共鳴するものがあり、「権力への意志」を主題に考察をすることとした。
 ニヒリズムに対する一般的概念として、或る人は世の中を裏側から見たいという、人生における初期の段階に一度は通り過ぎる現象であるとか、又、或る人は生きることの矛盾にきがつかないまま、常識と言われる世界に足を踏み入れてしまうものである、とか言う見方がある。私の場合、ニヒリズムへの漠然としたこだわりが六十年を過ぎた現在も四十年という歳月を経て心の中にくすぶり続けていた、しかしその理解の度合いはと言えば非常に表面的で、且つ誤解と錯覚の状態であったことが今回の考察の結果判明したのである。従って、これを機会に、より深い解釈への途を辿り、氷山の一角の瓦解を試みたい。
 ニーチェは『ツアラトゥストラはかく語りき』の中に、自己超克について述べている。
「人間と一切の生あるものが他の何にもまして欲するものは、自分の現在の無力状態がそこにおいて超克されるような、より高い、より強力なあり方である。人間は自己自身を完成すること、自己自身を再創造すること、単なる被造物ではなく、むしろ創造者となることを欲する。‥‥」そこに人間の生と意志との相克があり、ニーチェの人間に対する能動的権力への意志の根源があるのである。そして人間が達成しようと努めるより高いあり方の人間を超人と呼び、超人は自己自身を超克した人間であり、自己の情熱を支配し得る情熱的な人間であり、情熱の点でも理性の点でも卓越しており、自己の力を建設的に用いる創造者(能動的権力への意志)であると説いている。
それに反し、慣行に従う非創造的な人間は、自己満足した快楽主義者であることを暗示している。「人はなお隣人を愛し、隣人にわが身をこすりつける。というのは、暖かさが必要だからである。‥‥ときおり少量の毒、それは快い死のために人はなお労働する。‥‥」とニーチェが言う最後の人間と超人との対照において彼は現代文明批判を行っているのである。
 このニヒリズムの二つの観点、すなわち一つはキリスト教的禁欲やプラトン主義的ニヒリズムであり、他の一つは、ありのままの自然的生と世界の無条件的肯定が可能になるニヒリズムであると言える。このことをニーチェは「真の世界を私たちは捨て去った。どういう世界が残っているか。或いは仮象の世界であろうか。決してそうではない。真の世界とともに私たちは仮象の世界を捨て去ったのである。」「仮象の世界を捨て去った」とは、この現実の世界に与えられていた仮象的現象的という性格を捨て去ったという意味であり、この現実の自然的な世界を唯一の実在の世界として肯定するということである。ニーチェが価値の転換と呼んだものは、要するにこのような自然的な生の復権にほかならない。これが「ニヒリズムの自己克服」の意味であり、ニーチェはこれを自己のうちに体験し、そしてまたこれをヨーロッパのニヒリズムの辿るべき運命とも考え、このような自己克服を目ざしてニヒリズムを積極的に進めようとした。それが私の意図する能動的ニヒリズムである。ニーチェの生の哲学の根源には、社会の中で認められている伝統的な道徳的な要請に対する反抗であり、それは道徳的要請が個人の自由な生の発展を制限したり、抑圧したりするからである。ヨーロッパの歴史はキリスト教の歴史でもあり、ニーチェのおかれたヨーロッパの歴史がニヒリズムの土壌となっていることから、まず第一章においてヨーロッパのニヒリズムを考察し、その後、その土壌となったヨーロッパのニヒリズムの歴史に触れていきたい。
 第二章は、これまでの最高価値とされていたものへの批判を考察するが、ニーチェの根本的ニヒリズムは、宗教すなわちキリスト教の創り出して来たものへの批判なのである。
 それはキリスト教的道徳への批判であり、西洋の歴史、すなわちキリスト教の歴史の論理がついに暴露されるに至り、社会の危機的状況をも神の死としてのニヒリズムを提唱するに至る。このような道徳に対する革命的なニーチェのニヒリズムは、第三章において新しい価値定立の原理として、彼の目ざす自然における権力の意志が機械論的世界解釈、生としての権力への意志、権力への意志および価値の理論など、ニーチェの遠近法的観点による価値理論に言及し、最後の結論として、二十世紀末の現代における社会状況が如何にニヒリズム発生の時代背景に近似しているかを考察し、批判の対象としたい。現今の世紀末的様相は、ニーチェの能動的権力への意志の有用性を示すものであり、自由と不安の混在する実存主義的ニヒリズムが人間存在に深く根ざしていることを示しているが、ニヒリズムを正面に見据え、その徹底的自己超克の道を求めたニーチェに今こそ焦点を当てるべきではないかと思う。
 
 第一章 ヨーロッパのニヒリズム
  第一節 ニヒリズム
 ニーチェは、ニヒリズムが次に来るべき二十一世紀の戸口に立っていると言っている。ニヒリズムとは、価値、意味、願望の徹底的拒否であるから、ニヒリズムにひそんでいるものは、一つのまったく特定の解釈のうちにキリスト教的、道徳的解釈にその原因とするものがあるのである。その道徳(これはキリスト教から切り離すことは出来ない)に、キリスト教が持つ誠実さが反抗するのである。すなわち、その誠実さがキリスト教的世界解釈と歴史解釈の虚偽や欺瞞を暴くのである。その結果、道徳への懐疑が決定的なものとなるのである。
   第一項 生存のこれまでの価値解釈の帰結としてのニヒリズム
 この批判の対象となるキリスト教的道徳の仮説として四点を掲げることが出来る。
一、人間存在の絶対的価値
二、世界に完全性を見つけること
三、絶対的価値に対する認識を人間が持ち得ると見なすこと
四、人間存在への保存手段などである。
 要するに、キリスト教的道徳は、実践的ならびに理論的ニヒリズムへの大きな対抗手段なのである。しかし、キリスト教によって育成された道徳の中の誠実性がその欺瞞や私心を見抜き、これが刺激剤としてキリスト教の自己解体を生み出したのである。
 
   第二項 ニヒリズムのその他の諸原因
一方、大衆がふくらました欲求による価値が罷り通るとき、全生存が卑小化され、例外者はそれに圧倒されて自信を失いニヒリストになる。二千年の長きに亘ったキリスト教的価値評価の償いとしなければならない時代が到来している。今や全てのものが徹頭徹尾偽であり、言葉に過ぎず、混乱しており、弱化し、ないしは張りつめ過ぎている。卑小化、苦痛への忍従、不安、焦燥、雑踏など、文明の「現実化」が益々増大し、それらがニヒリズムの先行形式としてのペシミズムの到来の原因となっている。ペシミズムは、その論理エネルギーがアナキズムやニヒリズムの分析の働き手とはなるものの、その論理である無価値性、無意味性に依り、道徳的価値づけは生存への意志からの背馳となる。従ってニヒリズムが現れる心理学的状態には三つのことが洞察される。「目的」「統一」「存在」という諸範畴である。
一、目的=生成は何ものも目ざしてはおらず、何ものも達成されないということが明らかとなり、従って、ニヒリズムの原因としてのいわゆる生成の目的に関する幻滅が生じる。生成には目的など存在しないのである。
二、 統一=生成には大きなる統一など支配していないということである。一種の統一、「一元論」の何らかの形式であるこうした信仰の結果、人間はこれより無限に卓越している全体者に相関し、依存しているという深い感情にひたり、神の一様態となる。
 しかし、そうした一般的なるものは存在しないのである。つまり人間は無限に価値多い全体者が人間を通じてはたらかないときには、己れの価値を信じなくなってしまう。
 すなわち、人間は己れの価値を信じ得んがためにそうした全体者を構想したのである。
三、 存在=以上の二つの洞察があったとすれば、逃げ道として残っているのは、この生成の世界を迷妄と判決して、このものの彼岸にある一つの世界を真の世界として捏造することでしかない。しかし人間がこうした世界を組み立てたのは、一、二の場合と同じく心理学的欲求にすぎず、人間はそうする権利をまるっきり持っていないと悟るやいなや、ニヒリズムの最後の形式、それは形而上学的世界を信じないということを己れに禁ずるのである。そして誰も否認しようとは欲しないこの生成の世界が耐えがたくなるのである。故に、私たちが世界に置き入れてきた「目的」「統一」「存在」の諸範畴は、再び私たちによって無とされ、世界は無価値となるのである。
 ニヒリズムは一つの病理学的中間状態と表明するというこの仮説の前提は、世界にはいかなる真理もないということ、事物のいかなる絶対的性質もなく、いかなる「物自体」もないということである。このことは、それ自身ニヒリズムにすぎないが、極限的ニヒリズムなのである。そして現代を最も印づけるものは、人間が自らの尊厳を取り戻すため道徳にしがみつくが、しかしこれも必然的にニヒリズムの道へ辿りつくのである。
 しかし、ニヒリズムは精神の上昇した権力の徴候としての能動的なものと、精神の権力の衰退と後退としての受動的なものとの二義性をもっている。前者は判断による否定にとどまることなく、実行による否定がその本性から生ずる。そして苦の優勢にも拘わらず、強力な意志が生へと然りと断言することが可能なのである。
 しかし後者は、もはや攻撃することのない疲労のニヒリズムであり、ペシミズムである。両者の差は強さと弱さの問題として生ずる
すなわち、弱者はこれで破滅し、比較的強い者は破滅しないものを破壊する。
 最強の者は裁く価値を超克する。かくして悲劇的時代の要素が作り上げられる。
 ニヒリズムの運動は生理学的デカダンスの表現であるにすぎない。そしてデカダンスは断罪さるべき問題ではなく、いずれの時代、いずれの民族にも固有な症候なのである。その本質に関して、これまで原因と結果が取りちがえられて来た。それは原因とされていた懐疑、背徳、社会的問題はデカダンスの結果であり、ニヒリズムはデカダンスの原因ではなく、その論理にすぎない。そしてそのデカダンスの論理とは、弱者の衛生学として洞察すれば、哲学、道徳、宗教における最高価値において、弱さという病的遺伝体質の結果、有害な外来物の入り込む危険やその他に対して抵抗し得ない不可抗性が固有である。この弱さがヨーロッパにおける生の沈下を生んでいる。
 次に、ニヒリズムの極限の形式を考察すると、神への信仰がもはや維持さるべくもない時、自然の絶対的無道徳性、無目的性、無意味性に信を寄せることこそ心理的に必然的な欲情であり、たとえば、一つの解釈にすぎないものが唯一の解釈とみなされていたので、生存は無意味と見られるのである。すなわち、恰も生存のうちにはいかなる意味も全くないかのごとく、そして全てのものが徒労であるかのごとく思われるのである。この徒労が現代のニヒリズムの性格であることが立証されたが、この意味や目標なしに不可避的に無のうちを永遠回帰しているもの、すなわち、ニヒリズムの極限的形式なのである。
 この永遠回帰の説はニーチェによれば、生と世界を永遠に繰返される運動とみることによってこれを超越的な終極目的による価値づけ、意味づけから解放し、自然的な生と世界のあらゆる瞬間、あらゆる状態をあるがままに、無条件に肯定しようとする意図を示している。
 権力意志の説は超人の概念と結びつけられており、そこから神を否定する強者の支配を目指すものと解されることにもなったが、その支配者を道徳は敵とし、被圧者を保護し、彼らの生が絶望に陥らないように防いで来た。しかし、被抑圧者が権力への意志を憎悪する権利を持たないことに気づくとき、彼らは絶望せざるを得なくなるのである。すなわち、道徳も権力への意志の仮装にすぎないことが明らかになったということである。
 このような無意味性が永遠に回帰することに対して、ニーチェは永遠性の表象は循環であるとしている。彼は巨大な間隔をおいて同じ出来事が永遠に回帰することを信じた。そして彼はこの説をすべての仮説のなかで最も科学的であるとみなした。世界を構成する基本的要素として有限個の力の量を仮定すれば、有限個の形態だけが可能となる。そこでキリスト教の創造信仰に固執さえしなければ、過去にはなんの始まりもなく、またいままでに不動の終局状態が達成されたこともないことになる。選択すべき唯一の説は、この形態が巨大な時間周期に従って繰返されるに違いないということである。世界は目的によって律せられるのではなく、永遠に繰返される無意味な遊戯であって、われわれは何度も繰返して同じ役割を演ずるように運命づけられているのである。ちょうど超人の思想が神に対する反定立であるように、同じ出来事の永遠回帰という思想はキリスト教の時間概念と歴史概念に対する反定立である。キリスト教道徳の批判は第二章で述べることとして、第一章の最後に暗うつ化したヨーロッパのニヒリズムの歴史について考察する。
 
  第二節 ヨーロッパのニヒリズムの歴史
 人は明日のために生きるが、それは明後日が疑わしいからという時代の中で、道徳的偽善が見えかくれするからである。そして伝統の本能と意志に反抗し、解体的な諸原理が現代を性格づけるという現象が生じているのである。
 ヨーロッパにおける最大の嘔吐は精神の寄食者である。それは様々な道徳的装いをこらした現代精神の無規律のあらわれである。そしてそれは人間の卑小化や価値低下のあらわれでもある。ヨーロッパの数世紀に亘る暗うつ化が啓蒙思潮の結果としてペシミズム的な色調となって必然的に現れて来た。十七世紀の後半ごろまでに快活さの減退が認められ、大衆はその無道徳性に責任があると考えた。
 しかし、「神と道徳なしで」生きるペシミズムには耐えなければならない。暗黒の時期であり、又古いものを保守し、新しいものを逃すまいとするあらゆる種類の模索の時期でもあり、光明の時期として人は古いものと新しいものとが根本的に対立していることをわきまえた時期でもある。すなわち、古い価値は衰退する生から、新しい価値は上昇する生からうまれたものであることを(権力への意志の能動性)、そしてすべての古い理想は生に敵対する理想であること(キリスト教道徳への批判)をわきまえる。このような時期における現代性の特徴は、精神のテンポが一変したことを意味する。精神の繊細さ、明晰さに代わって色彩・量・実物を楽しむようになり、そのためバラバラな印象が充満しているので、人々はそれを消化できず、自発性を失い、順応的になってしまっている。
 このような解体的な状況にも拘わらず、人間の卑小化をうみ出すのと同一の諸根拠が、より強く、より稀な者たちを偉大さにいたるまで駆り立てている。
 総体的に、時代は同一の諸症候が衰退とも、強さとも解釈される現代世界の多義的性格を有しており、十九世紀の強い側面と弱い側面の矛盾の中で激しい緊張のうちに生長することは、偉大さへと予定された運命でもあり、そこに生ずる不満はニヒリズムの一つの良い徴候であるかもしれない。事実、いずれの偉大な生長も巨大な破綻や過失をも必然的にともなうものである。人類の稔り豊かな力強い運動のいずれもが、同時にニヒリズムの運動をも一緒に作り出して来た。ペシミズムの極限的形式が、そして本来的ニヒリズムがあらわれ出るということこそ、事情によっては一つの決定的な、そしてこのうえなく本質的な生長を示す新しい生存条件のうちへの移行を示す徴候なのかもしれない。十九世紀のヨーロッパ人は、己れの本能に羞恥することが少ないということを示す徴候でもある。それ故、われわれは意気阻喪する必要はない。というのも、現代では強者がより強い意志を持つようになった反面、大衆は啓蒙を通じてより知性的に、より順応的になっており、命令し得る者たちは、服従せざるを得ないものたちを容易に見出せるようになって来ている。その意味で、現代ヨーロッパはルネッサンス当時と似ていると言える。
 第二章 これまでの最高価値の批判
  第一節 宗教の批判
 宗教の起源は、強力な感情に突如襲われたときの現象をいう。例えば、己れ自身に対する一種の恐怖、戦慄の感情や、同じく異常な幸福、高揚の感情や、病人にとっては神の臨在を信ずるためには健康の感情などの「人格性の変更」を体験することにある。人間はこれらの衝撃を受動的なものとして受けとめ、それ故に人間はおのれを卑小ならしめたのである。すなわち、宗教は「人間」という概念を低劣ならしめてしまったのである。
 宗教的人間の初歩的心理学として、「人格性の変更」は外からの意志作用であるとし、そこには「自然」「自然法則」から来るものであるという概念が欠けている。その変化は私たちが意欲したのではないのに。私たちに伴う変化の意識である。従って宗教とは、人格の統一に対する懐疑の一産物、人格性の変更なのである。その結果、人間を二面性へと分裂せしめる。人間と神とへの二分であり、卑小なる人間と虚構なる神へと分裂せしめたのである。そこから、神の意志であり、誇り高く、崇高なる業績をなさしめるものは、己れ自身でなく、その起因は神にあるとしている。
 その神との直通路としての僧侶は、自らを神にも似た最高の人間類型に仕立て上げ、己れを神と人間との媒介者と信じさせることによって人々を支配しようとした。彼らは超人間的な俳優であり、彼らの徳への等級が人間の価値等級をつくるのである。
 敬虔な目的のためには虚言をしてよいということ、これはすべての僧侶階級、アーリア的典型などの理論に属している。哲学者たちも僧侶的底意でもって人間の指導を手中にしようと目論むやいなや、ただちに虚言の権利を正当化してしまうのである。
 僧侶達の聖なる虚言とは、僧侶になることが真理に達する唯一の形式であり、自然において、慣習において善であるものすべては僧侶の智恵に帰着する。彼らの作品である聖書に記されていることは、全自然の実現であり、そこに真実が実在しているとしている。
 元来、行為の自然的概念は生における有用性(生の促進)を基準とする因果的評価のうちにあるが、僧侶たちはこれとは別の生を考案し、行為の価値をその結果にではなく、意図に置いている。その前提は、(一)、罰し報いる神であり、この神がまさしく僧侶の法典を承認し、僧侶をおのれの代弁者、委任者として世におくるのである。(二)、生の彼岸。罪の大仕掛けがそこではじめて有効となると考えられ、この目的のためには霊魂の不滅を信ずる。(三)、人間の内なる良心。これは善悪は確立しているとの、又それが僧侶の掟との一致をすすめているときには神自身がここで語っているとの意識にほかならない。(四)、道徳。これはすべての自然的な経過の否認、すべての生起の道徳的に制約された生起への還元にほかならず、道徳作用(罪と報いの観念)は、世界を貫いているもの、唯一の威力、すべての変化の創造者にほかならない。(五)、真理。これは与えられたもの、啓示されたもの、僧侶の教えと合致するもの、すなわち、この世の生においても、あの世の生においても、すべての救いと幸福の条件にほかならないという捏造された虚言によって僧侶達により高い、より強い威力を手中にさせているのである。
 次に、キリスト教の歴史について考察すると、歴史的実在性としてのキリスト教が否定したのは、今日キリスト教と呼ばれているものの全てである。すなわち、教会的意味においてキリスト教的なものこそ初めから反キリスト教的なものであり、イエスの教えとは正反対のものである。イエスは純粋に内面的であり、おのれが「神化された」と感ずるためにはどう生きなければならないかを考え、実践した人である。イエスの言う天国とは、心の一つの状態であり、「個々人における心の転換」であり、いつでも来るが、またいつでもまだ現れない或るものである。
 ところがキリスト教は、それを懺悔、贖罪、来世での報いという教えにスリ変えてしまったのである。つまり、聖書の伝えるイエスは不条理な仕方で神の報いと罰を説いている。イエスは集団内の教階制度を攻撃する。従って、功績に応じた報酬の何らかの配分を約束などはしない。このようなイエスに彼岸の罪と報いを思いつき得るであろうか。
 パウロは、原始キリスト教を原理的に無効にしてしまったのである。彼は「十字架にかけられたキリスト」を象徴的なものとして置きかえ、異教の世界の人々が何を求めているか(犠牲の血によって罪を贖われることによって死後の生を待つこと)をよく知っており、キリストの生と死という事実から恣意的に取捨選択して、彼の教えの重点を移した。それは真の生が偽の生に、此岸の生が彼岸の生に、永遠の生が個人の不死に、信仰による救い(生の実践)が魔術的な贖罪にというように、イエスにおいて真の生き方として説かれたものが、何か神秘的な作用の結果として偽造される。
 今日のキリスト教は、最も深い無力におちいった古代世界の退廢形式である。すなわち、デカダンスの一つの典型にほかならない。キリスト教を礎きあげることの出来た実在的な基礎には、「選民」としてのユダヤ人家族であったのであり、そこから愛の原理がうまれ、謙虚や貧しさという灰の下で燃えている激情的な魂であった。このようなことの伝播が今日如何に汚されたものになっているか。キリスト教は民衆のルサンチマンの表現であり、又、支配的教権に対する民衆の反逆であり、最も低劣な者の幸福が可能となる徳を理想たらしめるようにする弱者たちの自己保存本能なのである。
 このようにして新約聖書に見出されるものは神の声ではなく、憎悪の最も卑劣な形式のものである。彼等の術策は、己れの類型を価値の尺度として神格化し、己れに敵対する者を神の敵として断罪することによって生存の全ての苦悩をそこから由来するものとみることである。そして罪責と不幸を編み合わせて、全ての罪責を神への罪責に還元するのである。それらの結果、最終的勝利を《神の国の到来》に期待するということである。
 以上のようなキリスト教の歴史のなかで、その諸理想によって否認されるものを設定し直さなければならない。その否認される理想とは、衿持、大いなる責任、あふれる気力、輝かしい動物性などの高貴な理想が否認されるのである。すなわち、人間典型の美や、知恵や権力や壮麗や危険性が目標を設定する「未来の」人間が否認されるのである。
 高級な人間が低級な人間から区別されるのは、恐怖を抱かず、不幸に挑戦する点である。従って、一種の幸福主義的価値尺度が至上のものとみなされ始めるのは退歩の一徴候である(生理学的倦怠、意志の貧困化)。「浄福」への遠近法をもつキリスト教は、苦悩し、貧困化した種類の人間にとっての典型的な思考法である。高級な人間にとって充実した力は、創造し、苦悩し、没落することを願う。
 神は人間を幸福な、有閑な、無垢な、不死のものとして創造した。ところが私たちの現実の生は虚偽の、堕落した罪深い生存であり、罰を受けた生存であるとされる。かくして、苦悩、闘争、労働、死は、生への異議や疑問符として何か不自然なもの、永続してはならない或るものとして軽んぜられる。これらの虚偽の、欺瞞のキリスト教は、各人が己れの義務を果たしさえすれば万事うまくいくと信ずる愚直な諦念によるものであり、その前提は、事物が神の摂理によって善の相のもとで導かれているという想念から、行為の結果である《善》をそれ自身で存在する原因者であると考える欺瞞に過ぎない。
 これに対して高度の権力は、善悪とか、真偽とかから自由であり、生をあるがままの姿で受けとれば、キリスト教が人類を没落させる危険を持つことが明らかにされる。キリスト教が無私、愛を説くことから、これを個の利害に対して類の利害をより高いものとしているとみなすのは誤解である。キリスト教はむしろ、個人の価値を絶対化することにより、もはや個人を犠牲にすることを出来なくしてしまった。だが、類は不出来な者の没落を必要とするものであって、それを不可能にしてしまうキリスト教は人類を没落させるものである。
 おのれの実行に対して、後悔や良心の苛責などは、例えそれが「赦される」ことによっても、「贖われる」ことによっても取り消されることはない。むしろ、その時にこそ、極端な衿持があってしかるべきであり、キリスト教が最も強い、最も高貴な魂をこそ破滅せしめる意志を持っているという、将にこのことでキリスト教を攻撃するということをやめてはならない。キリスト教によって捏造された人間の理想、人間に対するその要求、人間に関するその肯定と否定に対する攻撃をやめてはならない。キリスト教の理想は、あたかも最も有用で望ましいと思われがちな全てのもの――依頼心、温良、謙遜、忍従、おのれと同類の者への愛、甘愛、神への帰依、おのれの全自我の一種の解雇や罷免――がまさしく人間一般にとって理想を、目標を、最高の願望を与えるかのごとく言い寄るのである。このように高貴な本能を毒して病的ならしめることがこの本能の力を、その権力への意志を減退せしめるのである。
  第二節 道徳の批判
   第一項 道徳的価値評価の由来
 キリスト教的見解によると、道徳は個人や全体を教導することを通じて絶えず己れを実証しているのである。道徳に関する哲学的考察として、たとえば、カントの批判主義による知性での解放の権利が、キリスト教的解釈を拒否する権利をも自ら否認し、知性による超絶的な「理想」(神)を造り上げていることや、ヘーゲルの知性と理想の反動としてのロマン主義的「精神」をベースとする「己れを露呈し、実現する理想」を生成するなど、これら二種類の理想は理想自身を批判しているのではなく、現実の彼方に理想を定立し、そこから現実を不完全なものとして断罪する「道徳」という理想主義的発想そのものを批判するには至っていないこと、現実が理想からどれだけへだたっているかを批判するにとどまっていることを指摘することにある。なぜ理想は事の大小を問わず証明され得ないものであるかという問題に向けられている。
 このことは、宗教的、哲学的考察を離れても同一の現象を見出すことが出来る。すなわち、キリスト教徒の信ずる神をべースにする道徳的価値評価を功利主義的見地によると、あたかも神がいなくても道徳におけると同じ価値評価が残存すると考える。功利主義は、神に代わって快苦を善・悪の根拠にするが、道徳の由来の説明は変わっても、道徳の理想主義的発想そのものを批判してはいない。むしろ、隣人愛などのキリスト教的道徳の理想をそのまま受け継いでいる。
 次に、私たちの価値評価や道徳的善は何に由来するかという問題について考えるとき、まず「生とは何か」という生の概念について明確にとらえる必要がある。すなわち、生とは権力への意志なのである。道徳が生に由来し、生が権力意志に貫かれたものであるとすれば、道徳というものは、それ自体で存在するものでなく、権力意志から出発して己れの置かれた生の諸条件に対して下される一つの解釈であり、本質的に遠近法的なのである。これに対してルサンチマンの道徳がきまって訴える論法は、生のいっさいの個別性、偶然性、多様性を「超越」する原理をでっちあげ、その原理からこれらを一種の欠如態と見なすのである。生のかけがえのない個別性を単なる普遍性の欠如と見なし、稔り豊かな偶然性と多様性を、必然性と統一性の欠如、つまり無秩序であると見なしている。道徳が権力への意志という非道徳的なもの(生と言う道徳以前のもの)に由来し、そこからする一つの遠近法的解釈だとすれば、生起してくる全てのものは等しく存在する権利を持つことになり、一切が「善悪の彼岸」において肯定されたことになる。
 このように人間の生起は対立と矛盾を生むが、それらは絶対に等質であり、これを道徳に適用しても道徳が異なるのは遠近法的に制約されているからに過ぎないことを示す。
(ニーチェの遠近法――田島正樹著より)
 次に道徳主義的なもの一般について考察すると、人間的衿持を回復する試みとしての道徳において、「自由意志」の理論は、それが人間の衿持ある意志の現われであり、意欲されたものとして私たちの意識のうちに現れないものはすべて私たちに所属していないとの前提のものなのである。すなわち、人間の価値が道徳的価値として立てられている。したがって人間の道徳性が第一原因でなければならず、或る原理が第一原因としての「自由意志」の結果として意志によって制約されたものとしての意識性としての弁証を伴なった理性としての人格の完全性は、一つのカリカチュアであり、自己矛盾を持つ俳優的風刺劇の形式と同じになる。
 総じて人間の生起するすべてのもののうち、それ自体で非難さるべきものは何ひとつない。いずれのものも全てのものと結合されているので、何かと排除したいと願うことは全てのものを排除することに他ならないからである。この理論から、生成が一つの大きな輪環であるとすれば、いずれのものも等しい価値をもち、永遠で必然的である。対立するものの相互関係のすべてのうちには、生の特定類型の或る遠近法が、関心が表現されているにすぎない。すなわち、それ自体では、存在する全てのものは然りと言っているのである。
道徳はその自然性が剥奪され、道徳がそれ自身究極的価値とみなされ、道徳は宗教のうちに浸透されてしまう。すなわち、「神」と関係づけられて、生と対立せしめられるのである。
 道徳主義的自然主義とは、一見開放されたかに見える超自然的な道徳価値をその「自然」へと、その「無価値性」へと、自然的な「有用性」その他へと還元することである。
   第二項 道徳的理想
 A.理想の批判《願望の批判》
満たされることのない「完全性」への願望があらゆる衝動を生み、事物の現状に対する不満足の形となって表明される。たとえば、「これこれであるべきだが、そうなっていない」ことへの批判などであるが、現実はひとつの全体をなしているものだからそのひとつを取り上げて批判することは事物全体の歩みを断罪するものである。それは現実の彼方に身を置いて現実全体の審判者たらんとすることであるが、そのような道徳は一体どこからそのような権利を得てくるのであろうか。人間の全体がことごとく願望しか念頭にない、そして全く不満足な部分から合成されているそのことが倫理学の萌芽となっているのである。人間の生自身がこの不満足への要望を持っているのである。最大の理念とは、最も強烈な、最も長期的な欲望が作りあげたものである。私たちは、事物への欲望が激しくなればなるほど、その事物に益々多くの価値を与える。と言うことは、「道徳的価値」が最高の価値となっているとすれば、このことは、道徳的理想が最も満たされない理想であったと言うことである。
 人類を一つの総体的課題として取り上げると、人類とは、全体という固定観念から脱却し、上昇する生の過程を、下降する生のそれとが解けがたく結びついている多数性であり、数千年経っても一層若々しい人間類型が排泄を繰り返しながら存続しているのである。
理想には次の三つが考えられる。(一)、古典的理想(生の強化)、(二)、貧血した理想(生の稀薄化)、(三)、反自然的理想(生の否認)であり、(一)は間断なき実践が必要であり、仏教的類型である。(二)は「奇蹟」、応報、法悦、彼岸の救いなどが願望となるキリスト教的類型である。(三)は原則の確固さ、意志と知識との統一、高い自尊心等、ストア的類型である。
B.「善人」、聖者などの批判
 人が善であるのは、悪でもありうるという代償においてであり、悪であるのはさもなければ善であることが出来ないという人間の本性の相関的二重性を拒否できないのである。それなのに、人間のある特定類型を育成する思考法は、善と悪とを互いに矛盾する実在性とみなし、両者の相関性を否定し、一面的にのみ有能であることを望むのである。
 C.いわゆる悪しき固有性の誹謗について
 利己主義以外のものは全然あり得ないということの証明――最も強く自己を愛する者は、何よりも先づその自己が強いからであるということである。愛は利己主義の一つの表現であるということである。自己とは何であるか。「自我」とは、ひとつの概念的綜合でしかないのだが、利己主義からする行為などあり得ないのである。
 道徳価値の起源については、道徳によって賞讃されるすべての衝動や権力は、道徳によって誹謗され、排斥されるそれらと本質的に等しいものである。たとえば、権力の意志としての公正や、権力の意志への手段としての真理への意志であり、そして人間を評価すれば権力量とその意志の充実に従う事であって、意志の弱化や消滅にしたがってではない。意志の否定を教える哲学を零落と誹謗とを教えるものとみなす意志の権力は、どれほど多くの抵抗、苦痛、苦悶に耐えてそれを利益に一変することができるかに価値があるのである。そして生存がもっている悪や苦の性格を非難すべきものに数えいれるのではなく、いつかは生存がこれまでよりも一層悪く、苦しくなることの可能性を認めるべきである。
   D.改善、完成、向上という言葉の批判
 道徳的価値評価の価値が、それにしたがって決定さるべき基準については、「権力の意志」を持つ自然人であり、人間が己れを健康な、強い、富める、豊饒な、進取なものと感ずれば感ずるほど、益々人間は非道徳ともなる。厳しい思想ではあるが、その思想にふけらず、一瞬でも前進するとすれば、その時未来にどれほど驚嘆するものが出現するか。
   第三項 道徳の批判への結論的考察
 道徳を至上の価値とみなすことは、権力の意志の特殊な場合であり、道徳自身が非道徳性の特殊な場合である。支配するものと支配されるものの二つの「権力への意志」が闘争しつつあるのをみた。私たちは、今や敵対する価値評価を伝染や中途半ぱから、変質から純化する。そして居心地の良さを求めず、敢えて遠隔の地へとめざし、おのれを賭する。私たちの強さ自身、すなわち、権力への意志が大洋の彼方へと私たちを強制する。そこには私たちが目ざす一つの新しい世界が拓かれていくのである。

 第三章 新しい価値定立の原理
 第一部 自然における権力への意志
  第一項 機械論的世界解釈
 現今では機械論的世界解釈が勝利をしめて前景にあらわれている。すなわち、「理性」や「目的」を出来るかぎり排除し、あらゆるものがあらゆるものから生成し得るという解釈である。しかしこのことの致命的な欠陥は、世界の圧力と衝突それ自身を説明不可能を物理学者はアトムという小塊を持ち出して力学的解釈でもって記述するのである。しかしこの力には、「権力への意志」、「創造的衝動としての内的意志」が補足されなければならない。なぜならば、動物にあっては、すべてのその衝動を権力への意志から導出することは可能であり、有機的生命のすべての機能をこの唯一の源泉から導出することも同じく可能である。
 私たちは世界を解釈するために世界を算定しなければならない。しかし現実にはそのための恒常な原因を見出すことは出来ないので、そこにアトムを仮構するのである。
 しかしアトムという概念は、私たちの論理的、心理的世界からとられた記号であり、原本的事象が視覚と触覚の記号へと翻訳されたものである。同様に、純粋に機械的な意味での「牽引」と「反撥」とは完全な虚構である。私たちは意図というものなしで牽引ということを考えることは出来ない。要するに、因果性を信ぜざるを得なくさせる心理的強要は、意図を持たない生起を表象し得ないことのうちにある。
 或る諸現象の不変の縁起が証明するのは、「法則」ではなく、二つないしはそれ以上の諸力の間での権力関係である。それなのに、「原因と結果」といったものが信仰されるのは、働きを働くもの(実体)からひき出そうとする古い神話に由来するのである。
 機械論の批判については、機械論的世界は、運動とアトムの虚構の上に算定されている。だが、それは感覚の先入見から、「事物」というものが存在して、それが「運動」していると信じているのである。しかしそれは「自我」を己れの単位とし、それに対するものとして「事物」という概念を形成したことに由来する。この要素を除去すれば、いかなる事物も残存せず、残存するのは「すべてを引き出すはたらき」、すなわち、権力への意志のみである。権力への意志は存在でもなく、生成でもなく、パトスであり、「すべてを引き出すはたらき」の最も基本的な事実である。
 物理学者たちは、恒常なアトムの体系化をめざし、それを「真の世界」と信じている。
 そして各人はこの普遍的、必然的存在をそれぞれの流儀で捉えているのだが、それは「仮象の世界」にすぎないとする。しかし、彼等が措定する「真の世界」なるものも、意識の遠近法に従う一つの主観的虚構である。
   第二項 生としての権力への意志
 では、世界はいかなるものと考えられるのかについては、権力への意志からすれば世界のうちに見出されるのは、膨大なエネルギーの浪費である。機械論的には、生成全体のエネルギーは恒常不変とされるが、世界は或る持続した状態ではない。従って世界の持続状態は平衡状態ではないと結論せざるを得ない。
 「有機的過程」についても、世界全体と同様、あたかも人間がその発生に居合わせていたかのように人間自身の感覚と概念にあわせて全てのものが解釈されて来た。すなわち、人間はすべての生起を視覚と触覚にとっての生起として、したがって運動として解釈しようと欲するのである。
 又、「権力への意志」からする解釈においても、この意志は度合いを、権力の差異性を限定し規定する。権力の差異性には、そこに生長しようと欲する何ものかが現存していて、このものが他のあらゆる生長しようと欲する何ものかを己れの価値にもとづいて解釈するのでなければならない。
 ダーウィン主義的生物学の意味での「有用である」こと、言いかえれば、他者との闘争については「何のために有用か」という問題であり、発達のための有用と、持続・保存のためのそれは異なり、またダーウィン主義は、他者との斗争にとって好都合なものを有用とするが、むしろ逆で、「より強くなろう」という高揚した感情が斗争への意思を生み出すのである。
 次に人間が有機的生成の太古から今日までの全過去が肉体でふたたび生命を得て生々となり、それを通過し、それを乗り越え出て一つの巨大な未開の流れが流れゆくと思われるものだが、この肉体こそ旧来の「霊魂」にもまして一層驚くべき思想である。そこからは、全ての生起に内属しているただ一つの意志、すなわち、権力への意志へと還元される。それは、目的、目標、意図をもつということであり、総じてその意欲とはより強くなろうと欲すること、成長しようと欲すること、また、そのための手段をも欲すること、つまり権力の増大という意図なのである。
 しかし、このような力の感情こそ行為の原因であり、「力そのもの」であるという思い込みを自然界に移入し、全ては原因、結果、すなわち、因果性を信じ、力と力の感情とを同一視しているのである。したがって意志を行為の原因とみなすのは一つの幻想であって、行為は決して目的を原因としてひき起されるのではない。というのも、或る目的がめざされるときには、いつも何か目的以外の多くのことが生起するからである。
 人間における精神の全発達において問題なのは、おそらく肉体である。それは一つの高次の肉体がおのれを形成しつつあるという事の可感的となっていく歴史である。有機的なものはさらに一層高い段階へと上昇していく。自然を認識しようとの私たちの熱望は、肉体が己れを完成しようとする一つの手段であり、実験なのである。結局、問題なのは人間では全然ない。人間は個体あるのみでなく、一つの特定の直線を辿りつつ生命を継続していく総体的有機体なのである。
 人間に関するダーウィンの主張は、生存競争により弱者の死滅と強者の存続、すなわち、生命進化、完全性への不断の生長ということであるが、ニーチェは生存競争においては偶然は強者にも弱者にも幸いするとしている。
 したがって、むしろ反対に高級の類型は破滅し易く、支配的となるのは中位以下の類型である。
 だが、類の豊饒性はそのような破滅の機会と注目すべき関係にあるのである。したがって、これによって暗示されていることは、中級や低級の類型の優勢によって類の権力の生長は保証され、持続されているといえる。
 これまでの人間はいわば未来の人間の胎児である。問題なのは人間ではない。人間は超克さるべきである。そして私たちは個体以上のものであり、全連鎖そのものであり、連鎖のあらゆる未来の課題を抱えているのである。
   第三項 権力への意志および価値の理論
 あらゆる生物は権力を求めて、権力の増大を求めて努力している。権力への意志に随伴する快・不快の現象は、快については求めんと努力されているものが達成されるとき、快が生じるのではなく、快は随伴するのであって快が動機であるのではない。普通の考えでは人は快を求め、不快を避けるとされる。そして意志の満足が原因となって快を結果する、とか、不快が原因となってそれを克服しようとする行動が結果する、と思われている。しかし快とは権力への意志がその行く手を妨げるものを克服しつつ前進することに伴う現象であり、その意味で快はむしろ意志の不満足のうちにこそあり、不満足は生の刺激剤なのである。
 この章の最後の結論として、有機体の総体的生に較べれば、意識された世界はその小断片にすぎない。従って従来の考えのように、意識と現実全体の目的とすることは、部分を全体に及ぼす誤った遠近法(パースペクティブ見地)である。そこから神を空想し、生存を断罪するということが生じてくる。だが、唯一の根本的事実は、世界の運動がいかなる目標も持っていないということである。とすれば、過去が現在のために、現在が未来のために是認されるのではなく、生成はあらゆる瞬間において是認さるべきものであり、それらは全て価値を等しくしているのである。

 結論 現代社会への批判
 ニーチェの「権力への意志」について考察するに当り、カミュ、ドストエフスキー、キルケゴールなど他の実存主義者の作品も読んだが、私のめざす能動的ニヒリズムはやはりニーチェの作品の中に全て表わされていることがわかった。ニーチェ作品の表現の難解さ故に、本筋を見逃したり、取り違えたりなどの過程もありながら、ニーチェの言わんとすることを各表題ごとに学習することにより、ニヒリズムの全体像が浮び上って来た。ニヒリズムの二面性、ペシミズムやデカダンスなど受動的側面と、没落と退廃に正面から向き合い、人間の持つ「権力への意志」で自己超克する能動的側面がニヒリズムの中に混在しており、ニーチェはそこから人間の復活を呼びかけている。私の四十年間抱えていた誤解と錯覚のニヒリズムの糸が解け始めたのを感じた。
 二十一世紀の扉の前に立っている我々が今、向き合っているのは、活気を失った経済問題であり、表面的には一応平衡を保っているかに見える世界情勢も一端事が起きると、その内在的なものが噴き出すかに見える。例えば局地的な問題としてインド、パキスタンの核実験であるが、これは十九世紀中葉の印・パ紛争に尾を引いているし、イラン、イラク問題にしてもキリストの歴史に遡ぼっているのである。このように科学技術の発達に逆流するかのような人間そのものの本質は変り得ないのだろうかという問題がある。
 例えば日本一国に例をとっても、昨今の経済不況とも相俣って、社会が退廃状態の一途を辿りつつあると言っても過言ではない。人心は荒廃し、ニヒリズムの徴候に類似した社会状況の中、人間の尊厳さえも危うくなるような非道な犯罪が子供や大人の社会で陰湿に行なわれている。
 このような奈落に近い現今の社会情勢の打開策としてニーチェの説く「権力への意志」の能動的ニヒリズムが、人間復活への浮上の力となる可能性を持つものであると確信する。
 そこで、能動的ニヒリズムがどの様な角度から新風を吹き込むことができるかという問題に焦点をあてると、それは人間の軟弱さに対しての変革であると言える。
 その軟弱さの第一は、科学や物質を含めた文明のベールにすっぽり包まれて飽食の生活に慣らされ、少しの衝撃に対しても脆く、崩れ易い現代の人間の本質になりつつあることである。文明というベルトコンベアに乗せられ、立ち止まり足もとを見る術を失った人々が辿る道は人間の形をした機械であり、機械が衝撃に弱いのは当然のことと言える。しかしニーチェは、人間の生をもっと輝きと進歩する力を持っているものと確信し、ニヒリズムを正面に見据え、徹底的自己超克の道を見出す能動性に人間への希望をかけている。
 ニーチェの言う自己超克とは、徹底的に現在の自己に対峙し、没落や苦難を良しとする勇気を持ち、考え、悩み、何物にも抑圧されない自由で自然のままの自己への変革がなされることを言っているのである。それは能動的権力への意志であり、超人になるための人間性の変革なのである。
 軟弱の第二として、文明のベルトコンベアの上で無意識に動かしているのは足だけであり、考える力を失った人間は、目前のものや、暗示(宗教を含む)によって示されたものを道標であり、目標であると錯覚している。このようなものは単なる一時的慰めであり、砂上の楼閣であることに気が付かなくてはいけない。足元の砂が崩れ落ちないうちに自己のあり方にしっかり目を向け、今まで自己に被いかぶさっていた幾層もの飽食という薄皮を一枚一枚はがし、自己を自然的な生に戻す作業をしなければならない。その作業が哲学をすることであり、現代の人間に欠けているものであり、現代を世紀末的様相に変えた要因であるとも言える。哲学をする心、すなわち、自己の足元、自分の生き方に焦点を当てることこそ現代社会の本質からの変革に迫るものである。そしてそこから生まれる権力への意志は健康、将来、成長、力、生等にすばらしい力を与えてくれるものであることをニーチェ哲学は示している。ニーチェ哲学の価値の転換、すなわち、あらゆるものの否定が、かえってありのままの自然的な生や世界の無条件的肯定が可能になり、この現実の自然的な生、世界の肯定への必然的な道として積極的な意味を持つことになり、それはニーチェの能動的ニヒリズムとして、「権力への意志」の真の意味を現代社会になげかけ得るものとなる。
                     終り
                     

 









 参考文献
                   権力への意志 上下 原佑訳
     ニーチェ (筑摩書房)
     ニーチェ 渡辺次郎編
          (平凡社)
     生の哲学 ボルノー
          (多摩川大学出版部)
     世界思想大全集
     ニーチェ (河出書房)
     世界大百科辞典より (平凡社)
             - 52 -    

inserted by FC2 system