閼伽桶胴 (あかおけどう)
                  馬場 駿

 
 
 夢も目標も持てず鬱屈(うっくつ)していた頃、どこにも停まらない列車なんて無いと何かの本で読み、気持ち的に救われた記憶がある。でも、自分の意志でどこにも降りなければ有るのと同じことになる。各駅に停まるのに、降りたい気持ちがあるのに、恐れて降りられない自分がいれば、それもそういう列車が存在するのと一緒だろう。
 特急の進行方向に背を向けて立ち、車窓から飛ぶようにして移ろう景色を見ながら、そんなことを思った。
 今朝、自室のドアのノブに貼ったセロテープが剥がれ、だらりと垂れ下がっているのを見たとき、以前にも増して大きな身震いがした。
 父親が娘の寝顔を見に毎晩部屋の中に入る。こどもが幼い頃ならばどこの家庭にでもある、むしろ微笑ましい「風景」だ。
「そうよ、わたしが二十二でなかったらね」
 何の問題もないと言って笑った母に、私はそうつぶやいて頬を膨らませた。何が愛情なものか。支配とその結果を確認するための監視。命令と禁止しかない父の言動から、それ以外の意味を見出すことは出来なかった。

 小学校に入る前から習い事を強いられた。ピアノ、バレエ、茶の湯、生け花、水彩画。特にピアノは高校まで続けさせられた。とくに才能があったわけではない。お世辞はともかくとして、何人か替わった先生のどの人からも評価された記憶が無い。父だけが、鍵盤の上を這う私の白い指を綺麗だと、飽くことなく見つめていた。そんな印象しか残っていないのだ。当然私立中学から私立の女子高、女子短大と、父の思いのままに進路は決められている。卒業しても就職はさせてもらえず、料理学校に通うようにお膳立てをされ、抗(あらが)うこともできなかった。何不自由無い羨ましい環境、世間の人はそう言うに違いない。いくつの時だったか良く憶えてはいないのだが、狭いケースに入った可愛いフランス人形を、二階の部屋の窓から放り投げたことがある。恐る恐る下を見ると、ケースから転げ出て仰向けになった人形が微笑んでいた。
 正反対なのが母だ。入園、卒園、入学、卒業、もろもろの展示会、発表会、授業参観・・・それらに来たことが無い。いつも父が来て、父だけが私を見ていた。社交的な母は留守がちで、小さいときは帰宅すると誰もいない家の中で、いつも「ただいま、ただいま」と泣きながら叫んでいたような気がする。そんな母に父の過干渉を愚痴ったことがある。
「あなたが産まれて、わたしも生き返ったの。解るでしょ、それまではいまのあなたが当時のママそのもの」
 心底嬉しそうな顔でそう言った母。
 不満を通り越して、怒りを覚えたのは、父が勝手に見合いの相手を探し、期日、場所まで独断で、そう母にも相談せずに決めて、私に押し付けてきたときだ。        母は「行くだけ行けばいいのよ、もう先様に告げているんでしょうし、間にどなたか入っていらっしゃる可能性もあるし、パパのためというよりはその方々への思いやりとしてと、いうのかしら。一生のことだから参加したあとは、自分の思ったとおりにすれば?」と微動だにしない。
 それもそうかな、と当日出掛けてみたが、相手の男性は私と同じような人形ケースの中にいた。仲人によれば、もう三十二歳のはずなのに。
「わたし、もうバージンじゃないんです」
 お定まりのコースとやらで、二人だけの庭での散歩となったときに、唐突にそう言ってみた。
 口をパクパクさせた後で黙り込んだ彼氏。
「こう見えて、けっこう淫乱なんです、わたし」
 精一杯の笑顔で追い討ちをかけた。
 結果は当然破談になっている。
「お嬢様があまりに活発で、内気なうちの子ではとても無理なようです」
 仲人の理由付けに、父は首を傾げたとか。

 母が着飾って外出したのを確認した後、何かに憑かれたように家を出た。
 父から逃げようとしたのは初めてではない。
 あれは十八の夏、父に襲われ犯される恐怖に取り憑かれた末に、隣町で見知らぬ男を誘って処女を捨てた。一回だけの蛮行、それは心理的な逃避だった。本当は父そのものではなく、男性というものへの潜在的な恐怖と憧憬が、私を異常な行動に駆り立てたのだ。いまならそれがはっきりと解かる。その証拠には、何も感じない、単なる通過儀礼のような初体験だった。だから後悔もしていない。
 しかも、そのときの男は、あろうことか、性交した後で、こう言ったのだ。
「まるでダッチワイフだな、つまんねぇ女。ハンティングしてきたくらいだからケッコー遊んでんのかと思ったのによー」
 憎まれ口を叩いておきながらブリーフを穿くついでに乳房に触れてきたその男の手を掴み、思い切り噛み付いた私。目の前で自分の手の甲の血を舐めている男は、実は、当時私の中に棲みついていた父そのものだったのかもしれない。
 
 列車がトンネルに入った。
 現在(いま)の私がドアのガラスに映っている。
『それにしても着の身着のままね』
 小さなハンドバック一つで、しかもTシャツにジィーンズ――――
 私は人差し指で、自分のおでこを突いて苦笑した。
 しばらくは戻らない。それだけは、自分の中で唯一確かなものだ。キッチンテーブルの上に『ちょっと心の旅をしてきます。大丈夫だから捜さないで』と、母宛のメモを置いてきた。ついでに母のヘソクリを十枚ほど引き抜いている。何度も同じ場所から母が出しているので、私にとっては秘密の金庫でも何でもない。父は絶対に、娘の家出を公にしたりはしない。プライドが傷つくからだ。娘の安否よりも世間体を優先させるはずだ。それは哀しいまでの確信だった。
 ふと、強い視線を感じた。
 座席の縦パイプにつかまって立っている二十代の男の視線が、私の胸元に固定されている。
 抽象的なその男の顔が初体験の「男」のそれに変わった。そんな気がした。
「ちょっとぉ、どこ見てんだよー」
 自分でもビックリするほどの声音だった。
「す、す、すいません」と背中を丸めて遠ざかる男。
 大きなため息が出て、身震いが起こった。
『どいつもこいつも』
 男に対する失望が、一層募っていくのが分かった。
 それにしても、と思う。汚い台詞を吐いたとき、一瞬体中を駆け巡るこの快感は、何だろう。確か、見合いの相手に「淫乱」という単語を使ったときにも同じものが走った。父は、粗野とか不良とか、はしたないとされる範疇の言動を極端に嫌った。暴力はふるわない性質(たち)だったが、一度だけ頬を叩かれたことがある。駅近くのコンビニで通学時間が同じ近所の子と出会い、ソフトクリームを買って店の外で並んで座ったときだ。もちろんスカート姿だから最初は脚の処理にも気を遣っていた。話に夢中になっていたら目の前に男の脚が二本。見上げて「あ」父だと思ったとたん、大きな掌が襲ってきた。家まで「連行」された私は、父からショーツが丸見えだったと理由を告げられた。
『でも...またやる。...きっと』
 私は肩をすくめ、トンネルで出来た鏡に向って、ちょろっと舌を出した。
 どこへ行くという当てはなかった。何という駅で降りるということも。切符は、料理学校へ通うための定期券で改札を通ったので、そもそも買っていない。ただ、乗換えでいい加減な選択はしているようだ。決めているのは、家を出て二時間二十分を経過した直後の駅で降りる。そのことだけだ。過ぎて間もない満二十二の誕生日に因んでのことだが、これも遊びといえば遊びだ。
 
 自分が創ったルールに従って降り立った駅は、東京で見慣れた喧騒とは大違いの静寂の中に在った。
 湿っぽい地下道を通って精算も済まし、改札を出ると、駅の規模からは想像できないほどの、大きな広場が目の前にあった。
 重さの無い風が額の髪を揺らした。自分の中の何かが変われる。解き放たれたこの旅の中で。そんな気がした。
 時間は午後四時半、客待ちのタクシー運転手の視線を感じながら、小さな交番の角を曲がって、佇まいが可愛い路地の中に飛び込んだ私。何軒かの赤提灯をやり過ごして、唯一灯(ひ)が入っていた店に入った。
「いらっしゃい」の声が、頗(すこぶ)る威勢がいい。暖簾潜りで曲がった背が一気に伸びた。
 奥に二人だけ客がいる。確かにまだ呑むには早い、ふつうなら。
「辛口のお酒。冷で」
 口をついて出た言葉は、中年の呑兵衛のそれだ。つい肩をすぼめてしまった。
「可愛いねえ、しぐさが。一杯目はおごりだ」
 枡酒が手渡された。
「独りだろ、気をつけな、けっこう危ない連中も来る店だからここは」
 店主がおどけて舌を出した。
「どうして分かるの、独りだって」
「彼氏がいるなら待ち合わせてから来るだろ。それに初めての店で、中で待ってろは、無い。お嬢を愛してる男ならそんなことは言わない、させない」
「焼き鳥、おすすめで三本」
 この主の店なら安心して飲めそうだと思った。
 いつもならワインかビールを飲むのだが、居酒屋の和の雰囲気が、日本酒に向わせた。
 枡二杯で急に体が躁状態になった。『何かおなかに溜まるものを食べなくちゃ』と、そう思ったときだ。
 店主の顔が「オウ」という感じで動いた。
 振り返ると、無精髭を生やした筋肉質の男が立っている。足元は雪駄(せった)だ。職業は板前だろうか。
 入り口で立ち止まったまま男は、驚いたように目を瞬(しばた)たいた。
 店主がうなずいて男に呼応する。
 ふつうなら警戒を要する目配せなのだろうが、店主の人柄に接していた関係か、私の中には何の不安も生まれなかった。
 視線を店主に戻したとたん、右隣にすっと雪駄の男が坐った。「失礼」も、「ここ、いいか?」も無い。客はこの男を入れても四人で、空席だらけだというのに。
 大きめの枡酒が男の前に置かれた。
 男は一気に飲み見干すと、頬を膨らませて軽い咳をした。それを合図に新しい枡が出てきた。男が飲み干す、また酒が出てくる。無言のやりとりが何と五回も続いた。
 急におかしさが込み上げてきて私は、大きく顔を崩して笑った。男を覗き込むようにして「いやだぁ、この人」と言わんばかりに肩まで押してしまった。
 男は怒るどころかカウンターに顔を付け、私を見つめて微笑した。これを境にして、男の飲酒のペースは急激に落ちた。
 歳は三十というところか。目尻に出来た深い皺が人の良さを感じさせる。
 会話があるわけでもなく、ただ時々互いに見合って微笑を交わす。そんな時間がどれほど続いただろう。男は酔いが回ったらしく、上体をゆらゆらとさせて、時折私の肩に寄りかかった。
 不思議だった。嫌な感じがしないのだ。男は一言も言葉を発していない。それなのに男の体からは「声」が出ていて、私の「体」がそれを聞いている。何か誘われているらしいのだが、性的な匂いは無い。それが一体何なのかを確かめたくて、男の隣に居る。そんな気がした。
 一時間は経ったろうか。しゃっくりを一つして男が立ったので、主の顔を見て勘定を促した。やっと解放されたという気持ちもどこかにある。
 主は笑顔で首を振り、店を出て行く男の背に顎を向けた。知らぬ間に男は『俺が払う』と主に信号を送っていたのだろう。馴染みの客と店主という関係以上の間柄だと感じてはいた。ずっと一緒にいたが、勘定を支払ったシーンも無かった。
「あの、この辺に旅館とかビジネスホテルとか...」
 主はまた顔を暖簾の方に向けた。『追いかけないと見失うぞ』と言わんばかりに。
「どうもありがと」と私は、弾けるようにして席を立った。フッと一瞬バランスは崩したが、気持ちを引き締めて即座に姿勢を立て直した。
 だいぶ先だが男の背中が見える。小走りで追いかけた。勝手に勘定を済まされた以上、抗議するか、礼を言うか、とにかく口をきかなければならない。ところが、男の足を止め得る言葉が見つからない。名前を知らないから呼び止めることもできない。あと少しで並べる、その数歩手前で足を止めた。一呼吸置いてから、ゆっくりと男の後ろに従って歩いた。「なぜ」という問いに応えられない自分に焦(じ)れながら。
 まるで影絵のような世界に二人して佇んだ。
 月光を得て青白い玉砂利の彼方に寺院の本堂が黒く固まって建っていた。
「この本堂に泊まっていけ、布団ぐらいは都合してやるから」
 何一つ事情を聞かずに男は、ボソッと言った。
 住職の放蕩息子と言ったところか。板前だとしたら、親に勘当されてのことか。返事をするまでの僅かな時の中で、勝手な想像をした。
「たったいま知り合ったばかりで悪いし、酔っていてみっともないし。駅前に戻ってビジネスホテルかなんか探すから...」
 そうならなぜ男を追ってここまで来たのか、と冷めたもう一人の自分が問い詰めてきた。
「そんな気の利いたもの、この街にはねえよ」
 心細さも手伝って、甘えようかなと、また迷いが出た。いつもそうだ。格好をつけてみせて、その場ですぐひるがえす。本能が命ずるものを覆い隠し、本音を言いくるめる理由をいくつも用意する癖もいつも通りだ。
「でも、自分で何とかする」
 やっぱりだ。何の策も無いのに。
「じゃ、好きにしろや」
 不機嫌な感じではなかった。強情っ張りに呆れたという風情だ。その証拠には片頬で笑っている。
「あの...」
「うん?」
 男がスローモーションで振り返った。
「ううん、何でも...ありがと」
 心臓が急に激しく収縮した。
「ああ、じゃあな」と玉砂利を踏みしめて、男は本堂へではなく、右の杜に向って行った。
 踵を返して外灯もなく暗い夜道を文字通り闇雲に徘徊しているうちに、酔いが頂点に達した。祠堂らしきものを見つけると、私はその場に崩れるようにして、眠りに落ちた。

 目覚めて体を起してみると目の前に自分と同じ顔の女が眠っていて、それを見詰めている自分が誰なのかが急に不安になり、慌てて女を揺り動かしにかかるのだが、その女が目を開けたとたんに自分が消えて、今度は女の目で自分を探してうろたえる。いつもの夢が去ると同時に私は、気だるい朝を迎えた。
 左胸の辺りが寝汗で湿り、頭が重低音のスピーカーに触れたときのように振動している。手足の指が虫ピンで刺されたように痛いのも同じだった。
 だがこの日は、真っ先に目に映るものが違った。
 朝日を受けたさまざまな広葉樹の葉が、明度と彩度の組み合わせで、複雑な緑の抽象画を描いている。そよぐ風がその絵を微妙にずらしては元に戻す。その間の、ほんの僅かな時間をくぐって、陽光が煌(きら)めく。私は背中に石畳の冷たさを感じながらも、起き上がることを惜しんだ。一昨日までの無彩色な心の環境とは無縁の、広がりのある温かい色使いがそこにはあった。
 どれくらいの時間、そうしていただろう。
 私はようやく起き上がって、無意識に腕をさすった。七月の声は聞いていても、杜の中の朝方は冷える。小さな祠堂の廂(ひさし)を借りたつもりが、いつの間にか転げ出ていたのだから無理もない。
 頭痛が治まりかけ、鳥のさえずりが耳に心地よくなった頃、昨夜の記憶が少しずつ戻ってきた。そうだ、居酒屋で遇(あ)った男と別れ、深酒が禍をしてここで気を失ったのだ。
 その後で何が起こったとしても、自分としては記憶が全く無い。何も無かったはずだとは思いながらも不安になり、お腹を思い切り凹ませてジーンズの中に手を挿し込んだ。ジッパーを下ろせば簡単なものをと、苦笑しながらショーツの中をまさぐっていると、後ろで男の声がした。
「朝っぱらから何やってんだよ」
 慌てて手を抜いて振り返ると、昨日の男が小さなポリ袋を下げて立っていた。
 男は微笑しながら菓子パンを取り出すと、「ほら」と差し出した。
「腹、減ってるだろ。俺の朝飯だけどやるよ」
 私はパンを受け取ると、礼を言うのも忘れて齧(かぶ)り付いた。恥ずかしさを誤魔化すにはそれしかなかった。陰部を触った手で食べ物をつかむ。母が見ていたら卒倒するかもしれない。
「野宿するなんて無茶な女だな」
 こんな田舎でも集団でレイプするような奴らはいるんだと、男は眉をしかめた。
 その瞬間の男の優しい目を見て私は、心を囲む硬い殻の一枚が剥がれ落ちるのを感じた。

 勧められるままに男と一緒に寺の本堂の扉を開けた私は、思わず感歎の声をあげた。二人を瞬時に追い越した朝の光の束が、本堂の中央に立っている大太鼓の胴に当たり、赤をより鮮やかな赤にして、周囲にその赫(かがや)きを飛散させている。高さ一メートル半ほどの「脚」の上の大太鼓の姿は、首と尾を黒衣で隠した駿馬のように見えた。
 男は、太鼓を見据えて身動(みじろ)ぎもしない私の肩に軽く触れたあと、大太鼓の前に立った。
 皮を張っている紐に絡めてあった撥(ばち)を引き抜くと男は、上肢を交差させ、大きな弧を描いて肩の高さでぴたりと止めた。腰が沈み、下肢が相撲の四股を踏んだその瞬間のように安定している。朝日を跳ね返して男の胸は盛り上がり、いまにも弾けそうだった。
 太鼓の鮮やかさに男の凛々しさが重なる。
 乾いた喉がゴクッと鳴った。
 撥と一体となった男の左手が、伸びきったままで男の顔の前をゆっくりと動き、水平に置かれた右手に重なろうとした瞬間、限界まで引き伸ばしたゴム紐が急に縮むような速さで太鼓に向かい、右手が撓(しな)いながらそれを追った。
 ドドーン。本堂が共鳴箱になっている。
 私は両手で耳を覆い、床板から素足の皮膚に伝わってくる微かな振動に心を震わせた。
 男の右手が高々と弧を描いて撥を空間の元の座標に戻し、左手が再び男の顔の前を、今度はやや速さを増して通り過ぎる。
 ドドーン。太鼓の皮が打ち震え、綿埃の光る粒が男の頭上に舞い上がった。
 ドドーン、ドドン、ドドン......。連打に移ると男の腕の回転は漸く速くなり、鼓面を叩く、戻るを繰り返す撥の先端に残像ができ始めた。光が届かない本堂の奥の暗さが、その撥の軌跡を鮮明な画像にしている。 
「わたしも打ちたい」 
 感動が唇を動かし、言葉になって外に出た。

 大太鼓を打ち始めてから二時間近くになる。
 太腿が張り、膝が笑っている。男が打ってみせたあの構えは、想像をはるかに超えて下肢の筋肉に緊張を強いた。肩の高さより下に両腕を下げてはいけないという「ルール」も辛かった。腕が、針金製の筋繊維で出来ているかのように硬くて重い。左右の掌は血豆がつぶれて血が糊状になり、試しにゆっくりと掌を広げてみたが、驚いたことに撥はしばらくの間、床に落ちなかった。
 まだ、ドドーンが打てない。左手でド、間髪を入れずに右手でドーンと打つ、たったそれだけのことができないのだ。
『ありがとう。もうやめます』
 そう言いさえすれば、すぐに苦痛は終る。いつも傍にいて囁く、もう一人の自分がさかんに唆している。
『若い女のきまぐれってことで。彼もきっと笑ってくれて、それでジ・エンド』
 違う、と私は首を振った。強く打てば大きく、弱く打てば小さく、打ち損じればそのように、太鼓はそのままに音を返してきた。欺瞞に満ちた家庭内のやりとり、自分の言動と周囲の反応の極端な食い違い、いつまでも確かな形にならない自分、それらに対する不満を自分で圧(お)し殺してきたこれまでの日々。いま自分が撥で打っているもの、その正体が見えるまで、太鼓から離れたくない。そう思った。
「もうよそう」
 男が腕組みを解いて言った。
「待って、もう少し――」 
「しょせんお嬢さんの体だから無理だ」
『わかってるけど...』と、うなだれた私。
 顎から大量の汗が滴り落ちた。白いTシャツが汗を吸って透き通り、ブラジャーの形が浮き上がっていた。だらりと腕を下げると、汗が指先目がけて一気に走り下りて血を溶かし、撥が掌から滑り落ちた。
「着替えはそのバッグの中か。まさかなぁ」
 ハンドバックに入るとすればショーツぐらいなものだが、それすら用意は無い。私はかなり汗臭いに違いない。急に恥ずかしくなった。
「何にも持ってきてないの」
「衝動的に家出? まさか居眠りで乗り越し? ときどきの軽い流れで此処? そんな感じか」
「うん、そんな感じ」と気だるい鸚鵡(おうむ)返しになったのは、ようやく疲労が募ってきた証拠だ。
「スリーサイズを言えよ、体重はいいとして、身長も」
 男の唐突な質問に、一瞬方向を見失った。
「あ、そうだ、足の文数も」
 怪訝そうな顔をしていると男は頭を掻いた。
「厄介だな女は。そのままじゃ洗濯も出来ねぇだろ、着替えを買いにも行けねえ、違うか。太鼓の衣装貸してやるからって、聞いてるんだ、サイズを!」
 それでも男の顔は和(やわ)らかく笑っていた。
「シャワー浴びて、衣装に着替えて、そのあとでも気が変わらなかったら打ってもいいぞ。気が済むまで」
「ほんと?」
「ああ。お前、何かを吹っ切りたくて打ってんだろ、見てりゃ分るよ」
「さっき、もうよそうって。無理だって、そう言ったから」
「ああ、嘘はついてねえよ。これからも、いつやめたって、怒ったり、馬鹿にしたり、そんなことはしねぇ」
 私は男に、精一杯の笑顔を返した。

 庫裏(くり)でシャワーを使わせてもらった後で、男が用意してくれた太鼓の衣装を身に着け始めた。あらかじめ聞いてはいたものの、胸から腹にかけて巻く晒木綿の扱いには手こずった。特に激しい動きでもずれないように乳房を覆うには工夫がいる。さらに、白い木綿生地の股引が腰から太腿にかけてのボディラインを露(あらわ)にしているのも気になった。
 汗で重くなった衣類を傍らの洗濯機に入れると、姿見に自分を写しながら深呼吸をした。
「ぜったい打ってみせる」
 鏡の中の私が大きくうなずいた。
 夏生地の法被(はっぴ)をまとって帯を締めるときに、シュルッと小気味のいい音がした。

 本堂に戻ると男が、薬箱を前に胡坐をかいていた。
 私は深々と頭を下げて立礼をした。もう目の前の男を寺の放蕩息子だとは思っていない。
「まず手指を消毒するから、そのあとで、髪をアップにしろ」と男は手招きをした。
 男が塗った薬は、血豆に沁みて、飛び上がるほど痛かった。
「こんなときでもお前、声を出さないんだな」
 患部から目を離して顔を上げると、男の唇が至近距離にあった。少し酒臭かったが、べつに嫌だとは思わなかった。
 治療が終ると男は、私の手に幅広い絆創膏のようなものを巻き始めた。
「テーピングテープだ。せっかくの綺麗な手だからな」と、半ば笑いながら顔を覗き込んで言う。
「もう少し打ってもいいってこと?」
 手がこれ以上傷まないようにしてくれるということは、つまりそういうことだと思った。
「これ、祭り足袋だ。底の部分がゴムで、滑らないように出来てる」
 私は素直にうなずいて受け取ると、床にどっかと座って穿きだした。手にした足袋は問い掛けへの答えだ。練習は苦しい、痛いの連続なのに、不思議に嬉しい。
「お前、ひょっとして音痴か」
「ひどい...」
 幼児期からピアノも習い、バレエも少しだがやっていたと告げた。さして才能もないが音痴ではないつもりだと。
「なるほど、じゃあ聞くけど、何でドとドーンを分けて打とうとする。もしかしたら頭で考えて打ってねーか?」
「だって初めての太鼓だし、真似してるわけだし」
「ピアノで曲弾くときによ、ドの次はレとか頭で確認してから指を動かすのかって、聞いてるんだよ」
 違う。そんなことをしたら譜面の要求に応えられるわけが無い。
「手も足も、体はよぉ、曲と一体になることを望んでねーか」
 もっとも太鼓はメロディを奏でることはできないけどなと、男はうなずいてみせた。
 これで腑に落ちた。私は満面に笑みを浮かべて男を見上げた。 
「俺、誠二。マコトが二つってわけだ」
「わたし、京子。京の都の京」
「バカみてーだな、今頃になって、俺たち」
 男の大笑いに誘われて、私も相好(そうごう)を崩した。
「ほんとだ...」
 肩の下まである髪を束ねて持ち上げ、豆絞りの鉢巻きをキリリと締めると、再び大太鼓の前に立った。
 改めて自分の姿を見下ろしてみた。胸を覆いつくす晒の白、法被の黒地、龍柄の金銀、白い股引に繋がる下肢の肌色、その先が祭り足袋で、再び純白――そして目の前には真っ赤な大太鼓。
 誠二が目を細めてうなずいてから「まだ痛むか」と聞いた。
 体中の筋肉も両掌の潰れた血豆も、痛いに決まっている。それでも私は笑顔をつくって、思い切り頭(かぶり)を振った。
 ドドーン! 第一打が本堂に響き渡った。
『やった、打てた』
 掌をテーピングで保護した分、先刻よりは力強く打てたような気がしたが、まだ太鼓の反発力に負けているのが、自分でもよく分かった。
「音も振りも全然駄目だ、成ってない!」
 案の定、誠二が大声を張り上げた。

 外で鳥の声がしている。薄暗い本堂の中で私は、二日目の自由な朝を満喫していた。打てた。たった一種類の五分間の「初っ切り」と言ってしまえばそれまでだが、夕方に誠二から合格点を貰えたときは、涙が溢れ出て止まらなくなった。
「頑張ったな、すげーよ、京子」と、誠二も握手をしてくれた。
 私はこの日まで、自分自身で決めて積極的に何かをしたという記憶がない。幼児の頃から、欲しがって与えられるならまだしも、欲しがる前から全てを宛がわれてきた。習い事が全て歓びを産まなかった理由は、それだ。
 大きな扉が開いて、外の圧倒的な光と一緒に誠二が入ってきた。手には弁当らしきものを持っている。
「まるで、でけえネコだな」
 自分の危ない姿態にハッと気付いて跳ね起き、すばやく身繕いをした。
「ところで寺の和式のトイレにしゃがめたか」
「うん、平気だった」
 とは言ったものの本当は、太腿が異常に張って、無理に腰を下ろすと激痛が走った。
 それが強がりだと、誠二ならすぐに分かるはずだ。それでも弱音は吐きたくなかった。それが師弟の阿吽(あうん)の呼吸だと思った。
「ちょっとこいつのこと、話とくかな」と誠二は、大太鼓に手を掛けた。
「これは桶胴って言うんだ」
 誠二の講釈はこんな感じだった。
 名前の由来は鎧胴(よろいどう)の一種で桶側胴(おけがわどう)、鎧と違って鉄板ではなく、木製の長い板を桶状に組んで和太鼓の胴部分を造る。大木の幹を刳(く)り貫いて造るより安価に、それでいて長くて大きな太鼓を造ることができる。
「ちなみにこいつは胴周り三メートル、長さは一・八メートルもある」
 皮は牛皮で、もちろん一枚もの。接ぎは許されない。
「じゃあ、きのうの続きだ、打ってみろ」
 一緒に弁当を食べ終えると、誠二はすっくと立って撥を手渡してきた。
 私の肩と筋肉が硬直していて、太鼓の音が昨日より劣ると気付くと誠二は、「待て待て京子、ちょっと考えがある」と練習を休止した。そして驚いたことに、私を叱ったり小ばかにしたりはせずに、むしろ生じた「トラブル」を、創作意欲を高める契機として利用したのだ。
 まず誠二は、腰を沈める基本の型を思い切りよく捨てて、休めの姿勢からやや右足に重心を移させた。
「うん、この方が京子の脚線美が映える」と誠二。
 次いで、腕を常に肩より高い位置に保つ構えを捨て、左手を内に、右手を外にして顔の前で交差させ、撥を天に向けて固めさせた。第一打は、この構えのまま右膝を曲げ、一時上体を太鼓から遠ざけるところから始まる。ドドーンの後は、両腕とも下に降ろし、左右に大きく振って最初の構えに戻る。つまり、打つ瞬間を除けば、腕の動きは全て円運動をしていることになり、筋肉の負担は大幅に減ることになる。
「ワーッ、楽。凄く楽ね、これ」
 思わず私は歓声を上げた。
「ま、力強さが減った分、動きが綺麗になったってところか」
 誠二が気取って顎(あご)をさすった。

 私が新しい振りで初っ切りをマスターすると誠二は、本堂の隅から小さな太鼓を持ち出してきて、主題のある創作太鼓をやると言い出した。
「これは締め太鼓。文字通り太鼓演奏を締める一番重要な太鼓だ。小さくてもバカにしない。いいな」
 本演奏の難しさは、言わば序曲にすぎない初っ切りの比ではなかった。
「楽譜見せて」と私は、撥を置いてから頼んだ。
「そうか、ピアノやってたんだもんな」
「もしかしたらだけど、その方が速い...」
「これが太鼓の譜だ」
 渡された紙には片仮名が氾濫しているだけだった。
 目を丸くしたあとで首を傾げた私に誠二は、撥を拾って実演付きの解説を始めた。
 ドドーンは左・右の順に打って音一つの扱い、ドーン、ドーンは右・左の順に打って長めの同じ強さ、ドン・ドンは同様の順序で短めの同じ強さ、ドコは右・左の順序で短めに打って音一つの扱い。カッカやカカは太鼓の縁(ふち)を打つことを示し、両者は撥の跳ねや微妙な間(ま)の取り方で区別される。スッとあったらそこは、打たない意味になる。要するに太鼓には洋楽のような楽譜は無く、擬音を仮名で書いて伝えていく。むろん生きた伝授は、人から人への直接指導以外にはない。
「スッは音じゃないから、スッドンドンはドンドンとしか書けないと思うけど、違う?」
「太鼓の世界では、空間にも音があるんだ。振りもそれがわかって初めて美しさが出てくる」
 誠二は続けた。太鼓にはリズムはあってもメロディは無い。それを、音の大小、強弱、高低、長短、緩急のほかに、音の有無の無、つまり打たない時間的な空白を加えてメロディに近づけ、さらにはそれを超えていくのだと。
「解ったら、練習。疑問をもつなんてなぁ、ルール通り打ててからにしろ」
「はい!」と私は、幼児のように大声で返した。

 夕方、私は庫裏の裏に干しておいた洗濯物を取り込みに行った。汗まみれの太鼓衣装を脱いで洗うためには、自分の元の衣類が必要だからだ。ところが物干しには何も架かっていない。少し慌てた。もし盗まれたとしたら、水浴びをしてから着替えて、街に下着やらなにやらを買いに行こうというプランも頓挫する。
「とっくに取り込んであるよ」
 女の甲高い声が響いた。
 振り向くと、小太りのいかにも人の良さそうな婦人が微笑しながら立っていた。
「はぁーあ、ほんとに瓜二つ...」
 婦人はそう言うと、しばらくの間、あんぐりと口を開けたままでいた。
「ありがとうございます。それであの洗濯物」
 誰だか分からないが、とりあえず頭を下げた。
「あ、はいはい。この脱衣籠の中にね」と婦人は布のカバーを外した。
 ようやく手にした衣類は丁寧にたたまれていた。
「お名前は? わたしユキエ、この寺の住職の姪っ子にあたるの。ときどき賄いやら掃除やら手伝いにね。ところであなた真理ちゃんとは姉妹? もしかしたらだけど」
「京子です。あの、マリちゃんてどういう...」
「あ、違ったのねぇ、真理(しんり)って書くんだけどね、こんなこと言っていいのか分かんないけど、誠二さんの恋人だった人」
「だった?」
「うーん、不幸な事故でねぇ」
 婦人は、言葉を差し挟めないほどのスピードで、事情を話し始めた。
 それによれば――
 誠二は、近隣の市町村は言うに及ばず県外でも有名な太鼓の名手だ。本職は造園士なのだが、仲間とやっていた創作太鼓が各地で引っ張りだこになり、どちらが本業だか分からなくなった。一と月前のこと、この寺が檀家のためにと演奏会を催したのだが、その際に不幸な事故が起こった。誠二が撥で太鼓の縁を打った瞬間、撥が縦に裂けてその一部が一直線に飛び、メンバーの真理の右目を直撃したのだ。反射的に少しかわしたのだが、失明こそ免れたものの、真理は手術の傷痕を残すことになった。二人は相思相愛の仲だったが、事故のあと真理は隣の県の実家に引き取られ、誠二は独りになった。不可抗力とはいえ、誠二は責任を感じて落ち込み、それ以後撥を持たなくなった。
 婦人は、その真理という子と瓜二つの、傷のない私の顔を見て、誠二の気持ちが和らいだのかもしれないと言うと、ようやく口を閉じた。
「真理さんて方、上手だったんでしょうね、太鼓」
 口が勝手に質問をした。
「そりゃあ、もう。誠二と二人並んで打つ前打ち太鼓だとか、桶胴での掛け合いだとか、絵のように綺麗で、それでいて激しいのよ、二人の関係みたいに」
 胸が締め付けられるような感覚があった。
『もしかしてわたし、その人の代用品?』
 誠二が今まで優しく見詰めたり、厳しく教えていた相手は、実は私ではなく真理という人? 私はダミーにすぎなかったのだろうか。やりきれない想いが全身を満たしてくるのが分かった。
「大丈夫? 顔色悪いわよ」
「いえ、ちょっとした疲れです。私ってこんな痩せっぽちでヤワなので」
 途中で稽古を止めたくはない。真理という人の身代わりでもいい。私が打っているのは太鼓ではなく自分自身なのだから。そう思いなおした。それなのに勝手に涙が溢れ、頬を伝った。
「傷つけちゃったみたいね、やっぱり」と、婦人は申しわけなさそうに首筋を掻いた。

 婦人の厚意で風呂に入ることができた。買い物も、帰り掛けに済ませ、今度来るときに持ってくればいいならと、婦人が引き受けてくれた。
 太鼓衣装の洗濯を済ませて本堂に戻ると、桶胴の傍に布団が敷いてあった。これも婦人の計らいに違いない。私は歓声を張り上げて走り寄り、布団の上で手足を極限まで伸ばした。湯舟の中での蕩(とろ)けそうな快感といい、肌に優しい布団の感触といい、私には新しい発見以外の何ものでもなかった。かつて、身の周りのものにこれほど感謝したことがあっただろうか。もしかしたら日々不満の数を増やしていたのは、自分の甘えた根性だったのかもしれない。自分の未熟さだったのかもしれない。
 私はだだっ広い本堂の中で、実際以上に小さい自分を感じていた。

 三日目の誠二は、さらに厳しさを増して鬼のようになった。
 桶胴の反対側に、幅三センチ、長さ八十センチ程の竹撥を持った誠二がいて、ゆっくりと打ち始める。むろんその姿は私には見えない。重い低音の竹撥のリズムに合わせ、樫の撥で、振りを付けながら打っていく。一打、二打は何とかこなしたが、漸く速くなる三打から先がどうしても打てない。掌にまた血が滲んだ。しかし誠二は、初日と違って、治療もテーピングもしてくれなかった。私は唇を噛むことで自分を鼓舞し、力みすぎて唇を切った。振りを気にしなければ音は出せるし追いつけもする。逃げでそうしたこともあったが、誠二には分かるらしく、すぐに飛んできて竹撥で尻を叩いた。
「京子、もう一度言う。お前が止めたいときに止めていいんだぞ」
 冷たく突き放すことも忘れない。
 練習は間断なく続き、握力は午前中でほとんどゼロになった。初日と同じTシャツにジーンズ姿なのだが、発汗量が二倍に近いためか、川にでも落ちたように濡れている。
「休もう」と誠二が助け舟を出した。
 誠二が床に置いた竹撥が血に塗(まみ)れている。
 私は、その場でしゃがみこんだ。意識が朦朧として肩が震え、声も出ない。
 頬に近づく冷たい感触に、ハッとして顔を上げると、誠二が水筒を差し出していた。
「いっぺんに飲むな」
 その注意も、渇ききった私には通じなかった。口から溢れ出た水が白い頸(くび)を伝って、Tシャツの中へと流れ込んでいる。
 誠二は水筒を取り上げると、残りの水を私の頭の上から垂らした。
 私は犬がそうするように上体をブルッと震わせ、「冷たーい」と叫ぶと、
「着替えて、飯にしよう」と誠二が、小さい笑みを返した。
『だめ、太鼓衣装、まだ乾いてない』
 私は素っ裸で誠二と食事をする自分の姿を想像して、クスクスと笑った。
 そのときだ――
「誠二、その女、何?」と大きな声がした。
 声がした方へ顔を向けると、逆光の中に長身の女が立っていた。
「真理...お前、いつ」
「駅前で幸枝さんに聞いたわ、とってもいいムードなんだって? その彼女と」
「そんなことを言いに来たのか」
「音だけ聞いてると、ハイレベルなのがよく分かるわ」
「よせ、お前らしくない。盗み聞きの次が皮肉か。以前の真理ならそんなことは――」
「変えたのは誰よ、こんなに醜くしたのは誰!」
 真理が立ち位置を変えたことで逆光が解け、顔が一気に光に曝(さら)された。
 思わず息を呑んだ。左目の上に手術痕がはっきりと残っている。本来の端整な顔立ちが、一部引き攣(つ)るような感じでバランスが崩れている。
「何よ、その勝ち誇ったみたいな目は」
「止せって言ってるだろ」
「ごめんなさい、そんなつもりじゃないんです」
 誤解だ。でも、真理の気持ちは痛いほど解かった。後ろから誠二と私のふざけあいを見ての嫉妬なのだ。真理と今の自分を入れ替えてみれば分かる。
『でも同情はよけい嫌でしょ、傷つくでしょ』
 私は心の中で真理に問いかけた。
「誠二、二人だけの曲を教えてるって何。説明できるの、そのにやけた口で言ってみてよ」
『二人だけの曲...』 
 反射的に私は誠二を見た。
「自分こそ何だ。一言も無しに逃げ出して。どんなに心配したと思う、メンバーが」
「フン、メンバーがでしょ、誠二は捜しも追いかけもせずに次の女探し? もう一度聞くわ、この雌の野良猫、どこで拾ってきたの――」
 パシッと湿った音がした。誠二があっという間に真理に近づくと頬を打ったのだ。直後に真理が、ドンと誠二の胸を叩いた。その目が真正面から誠二の目を見据えている。
 涙だ。真理の目から一気に溢れ出した。幼児が父親に叩かれた後にみせる悲しくて訴えかけるような表情。
『きれい。真理さんて、綺麗なんだ』
 心底好きな男を見つめる女の美しさに私は、正直なところ衝撃を受けた。
「やめろ、人を傷つけるお前なんか見たくない」
 そう言うのと真理を抱きしめるのとが同時だった。
 真理は誠二の胸に顔を埋めて、イヤイヤをするように頭を振っている。
 私は、だらりと下がっていた真理の両手が誠二の背中に回るのを確かめると、数歩後退りをして庫裏へと続く出口に向かった。
『お次はキスか、いいなぁ』
 心で後ろを見ながらようやく表に出た。
『京子、泣くな、涙なんか出すなあ!』
 陽の光のせいにして、それでも私は流れ出る涙を、暫らくそのままにしていた。
「誠二のばかやろー、てめえなんか好きでも何でもねぇや」
 小声で発した汚い言葉に癒されて私は、汗まみれのTシャツを脱ぎ、ブラジャー一つになって青空を見上げた。

 不思議な寺だと思った。ほとんど訪れる人がいないのだ。庫裏の裏とはいえ、薄い下着姿で日向に身を晒していられるのはそのお陰なのだが。
 着替えがない以上、脱いだTシャツを乾かし、ジーパンを木に吊るして風と太陽に処理を頼むしかない。どちらかというと、ヤケクソに近かった。
 チチチッと野鳥が近くで鳴きだした。のどかだった。うっかりすると眠ってしまいそうな――
「さっきはごめんね」
 ハッとして振り返ると、真理が着替えらしきものを手にして微笑んでいる。
 立とうとして、自分の格好に気が付き、またしゃがみこんだ。
「やだ、はずかしい」と胸を抱(かか)える。
「誠二がね、着替えがないはずだから、捜して届けろって」
 声の質までさっきとは違う。柔和だ。
「ありがとうございます」
「あなたって面白い人ね。お友だちになれそう」
「ほんとですか」と思わず立ち上がった。
 結局真理に裸同然の姿を披露したことになる。
『もういいや、格好つけてもしょーがない』と、開き直った。
「半袖のブラウスに巻きスカートだけど、いい?」
「もちろん、です」
 ファッションを云々する場面ではない。それよりも、渡してすぐにその場で身繕いが可能な衣類が選ばれている。
『この人、すごいのかも』
 誠二が惚れた女。きっと太鼓のメンバーの世話は全て真理がやっていたのだ。運動部のマネージャーのように。
 さっそく身に付けた衣類が、ぴたりと私のサイズが合っていたのには驚いた。もしかしたら誠二に告げた体のデータがそのまま真理に渡ったのか。もしそうだとしても、こんな短時間に都合をつけるのは不可能に近い。
「それ、わたしのなの、このお寺にお世話になってたから、まだ衣類もそのままで」
 顔立ちだけではなく体型までもがそっくりだということか。
「自分が案外醜いってこと――」
「え?」
「自分が誠二のことをどれだけ好きだったかってこと、自分しか見えない心がどんなに卑しいかってこと。 ......あなたのお陰でよく分かったわ。だからお礼を言いたくて」
「お礼だなんて。それより誠二さんと真理さんの二人の太鼓をわたしみたいな下手っぴぃがやって、ごめんなさい」
「ピアノやってるんですってね、バレエも。それで納得したわ」
 もうそんなことまで話したのかと、そこまで心の縒(よ)りを戻したのかと、少しだけれど嫉妬した。
「ほんとはね、口惜しかったの。わたしはあの竹撥との掛け合いをマスターするのに一と月もかかったのよ。それをあなたはすでに誠二に追いついて打ってた。幸枝さんにはまだ来たばかりって聞いてたから、ショックだった」
 取り乱したのは、誠二が他の女にという嫉妬もあるが、太鼓の習得速度に対する驚きも手伝ってのことだったと、真理は、冷静な自己分析を口にした。
「もちろんあなたを覗き見て、すごく美人だったので。それもあるけど」
 真理は、羞(はず)かしげに唇を噛んだ。
 停まりたい駅は自分で選んで決めろ、望むような駅がなかったら自分自身で駅を造れ、と誠二は言った。そして、言ってからしばらくの間、背を丸め、何かに耐えるように肩を波打たせていた。お手伝いの婦人幸枝からある程度の事情を聞いていた私には、それが私だけに宛てた言葉でないことはすぐに分かった。その言葉を自分自身宛てにと、誠二に言わせた女性が目の前にいる。
「二人の真ん中に鏡があるみてぇだな」
 私と真理は同時に庫裏の方を見た。
「太鼓が待ってる。二人とも本堂へ戻れや」

 竹撥と樫撥の競演に私は息を呑んだ。
 誠二と真理が呼吸を合わせ、自信に満ちた大きな振りで桶胴に挑む。いや違う。打ち手のこの二人にとって桶胴は、見えない相手に心を伝え合う電話機。もっと言ってしまえば、二人がセックスするためのベッドなのだ。そう思った。また涙が出てきた。それが演奏に対する感動なのか、二人の仲にたいするジェラシーなのかは自分でも判らない。ただこれだけは言える。
『目を逸らすな。目の前のふたりの姿と、いまの自分の気持ちから』

 その競演のあとで真理は、現在の住まいへと帰っていった。結論としては、気持ちを整理してから寺に戻るという。
 私は駅まで送っていった。もう少し真理と話したいと思ったのだ。
 その途中で、こんな会話があった。

「わたしの顔の傷痕(きず)をみるたびに誠二が責任を感じて萎縮する。それが辛くて離れたの。お金をかけて手術を繰り返せば整形できるけど、そんなお金無いし。もう元の顔には戻れないのよ。以前のふたりにも」
「誠二さんは...」
 呼び捨ては避けた。それがいまの真理への一番の思いやりだと思ったからだ。
「真理さんの顔だけを愛してるわけじゃなくて、真理さんという人を、心もからだも、その全体を、だと思うの」
「建前はね、以前のわたしならね。でも、もうそれが狂っちゃったのよ、当人にしか分からないわ」
「でも彼はいまのままの真理さんも好きだと思う。前と同じように。違う?」
「罪の意識でね、でもそれは愛情じゃないでしょ」
 私の中で得体の知れない何かが蠢(うごめ)いた。
「身勝手な発想ね、悲劇のヒロインを気取ってるだけよ。彼を虐(いじ)めてるだけよ」
「待ちなさいよ」
 歩みを止め、真理の血相が変わった。
「待たないわ、いいから最後まで聞きなさいよ」
 緑色の風が二人の間を通り抜けた。少し強めだけれど、冷たくはなかった。
「あなたの愛が、いい? 誠二さん一人に向かっているなら、彼がいいと言っているのだから傷のある顔でいいのよ。でもいまのあなたは違う。誠二さん以外の世間の、大勢の男の目を気にして、不特定多数の男のめがねに適わないだろう自分だから、そういう顔の傷だから誠二さんとの愛も終わり、継続は不可能、そう言ってることになるのよ。これって変じゃない?」
 何か言いかけて真理は黙った。
「議論を仕掛けてるんじゃないわ。返事はいいの。電車の中で正直な自分自身に聞いてみてよ。その結果がもし良かったら、ちょっぴり気持ちが歪んじゃった自分自身に、直接返事してやって」
「きれいなあなただから言えることよね、それ」と真理が唇を咬(か)んだ。
「理屈じゃないの。あんな抱きしめられ方したら...女なら、わたしなら、感激して泣いちゃうわ、ぜったい離さないわ彼を、誠二を! この幸せ者、ぜいたく女!    甘ったれるなぁ」
 決め台詞は、配慮も忘れてめちゃくちゃになり涙声のあとで、激しく咳き込んだ。

 結局誠二に、私の竹撥競演が合格点をもらえたのは、四日目の夕方だった。
「ほんとにいいの? このわたしで」
 また口が勝手に微妙な言葉を吐いた。
「真理はなぁ」
「うん...」
 そのあと急に込み上げてくるものがあった。声が出てこない。
「不器用な女なんだ、本当は。それでも、練習、練習の連続、努力だけで太鼓をあそこまで極めたんだ。京子は違う、天性の才能だと思う。いままでお前に気付くチャンスがなかっただけだ」
「誠...」
 私は感激のあまり、太鼓衣装が汗塗れなのも忘れて誠二に抱きついた。涙が溢れて汗に混じり、夢中でしたキスが塩味になった。誠二が舌で応じてくれたとき、
それがようやく、苦い裏切りの味に変わった。
「よく来たな、ここまで。京子、お前はもう大丈夫だ」
 誠二が抱きしめたままで言った。
 まだ間違えずに、遅れずに打てるという段階でしかない。振りを楽しむ余裕もなければ、空間にあるという音も聞こえてこない。けれど私がこの四日間で打ち続けたもの、これからも打ち続けなければならないものは見えてきた。それは桶胴ならぬ、自分自身だ。
 私は誠二の逞しい胸の中で、桶胴の音のように激しくも快い命の鼓動を聞いていた。
『代用品だ、わたし。でも、いいんだ。いまはそれでいいんだ...』
 この抱擁を一生忘れない。そう思った。
   
 幸枝に呼ばれ、寺の奥まったところに建っている住職の館に入った。
 今日は気持ちも装いも充分に女だ。幸枝が買ってきてくれた着替えの衣類は、都会でも通用するハイセンスなものだった。
 広い和室に三つの古風なお膳が並んでいた。「大名膳」だと幸枝が教えてくれた。
 派手ではないが色彩豊かに料理が配されている。この様子はいわゆる「お呼ばれ」だ。少々緊張気味に、そう思った。
「ごめんね、誠二の分、わたしがいただくの」
「はい」と応えて微笑んだ。その原因をつくった張本人は私だから。
「ほう、あなたが京子さん」
 入ってくるなり名前を呼ばれた。
 着流しというのだろうか、寛いだ格好の、坊主頭。耳と鼻が極端に大きく、そのアンバランスな感じが対する人の緊張感を解く。そんな感じだ。
 皆が揃って箸を持つと、名は慈徳(じとく)、誠二の親代わりだと静かに言った。 
 誠二は家出少年で警察でも黙秘を続け、親の住所は頑として言わなかった。一方親も捜索願を出していない。歳は当時十四、生意気盛りで粗暴。この街で当てもなく徘徊しているうちにチンピラに絡まれ、誠二は相手を半殺しにしてしまった。保護観察になった誠二は慈徳夫婦の保護下に置かれた。太鼓は「精力善用自他共栄」を目的に住職がやらせた。爾来二人は喧嘩を繰り返しながらの「親子」になったという。
「そんな誠二をな、あなたは和(やわ)らげ、癒(いや)し、諭(さと)した。自分の誠二に対する女としての気持ちを犠牲にしてまで。これは生半(なまなか)な愛情では出来得ない。どうしてもお会いしたくなってな。迷惑かも、と思ったんだが来てもらった。ありがとう」
 住職があらたまって頭を垂れた。
『なぜわたしの心の中まで?』
 辞儀を返しながら、疑問が湧いた。
「この四日間のあいつを見ていての勘ですかな。違っていたら謝ります」
 読まれている、と仰天した。 
「いえ、とんでもございません。和らげられ、癒され、諭されたのはわたしの方です」
「うーん、これは教わった。桶胴の竹撥競演は誠二が真理を育てようとして創ったんだが、その桶胴であなたと誠二が互いに諭しあい、人として高い想い合いを実現した。価値は桶胴にありとも言えそうだな」
 傍らの幸枝が箸をもつ手の甲で瞼を拭うのが分かった。ほんとうに良い人だ。そう思った。
「ところで真理があなたに嫉妬したと言っていたが、よく聞くとな、誠二が稽古中のあなたの頭に、水をかけてふざけ合ったのを見てのことらしい。私にはあんなことしてくれなかった。あんなに楽しそうに接してくれなかったと言ってな」
 そうするとあのときの真理を普段の心理状態に戻したのは住職の力? 私は少しだけ救われた。
「仏教に閼伽(あか)という言葉があってな。仏に手向ける水という意(い)だが、価値という謂(いい)もある。さらにな、閼伽灌頂(あかかんじょう)と言って、修行者の頭の上から香水(こうずい)を注いでな、その者の努力の功を讃える儀式がある。誠二はそんなことなど知らずに戯れたのだろうが、それを見た真理には、その行為の意味が直感で分かったのかも知れんな。ま、いずれせよ、四方八方万々歳の大団円ではある。もう一度お礼をします。ありがとう、京子さん」
 今度は私の目がうるうるとし出した。

 夕餉のあと、本堂の中央に正座した私は、桶胴を一人見上げた。この四日間でかいた汗の量は、過去二十二年間にかいた汗の量を凌いでいるのではないか。流れ出た汗は当然渇きを呼び、肉体を傷めたが、涸れきった心には大いに潤いを与えてくれた。味わったこともない爽快感の中に、いま、私はいる。
 汗は汚いものだと母に教えられた。そういえば、白くて綺麗な手は女の価値を決めてしまう、とも。私は両の掌をかざしてみて、思わず笑った。右左とも数個の血豆の痕が口をあけ、十指のほとんどに傷テープが巻かれていて、とても見られたものではない。
 私は、その自らの醜い手にキスをした。生まれて初めて、自分の全身で感動し、強い意志で為すべきことを決め、即座に実行に移し、そして最後まで耐え抜いた。ぐちゃぐちゃになった手。それは私が自らを讃える賞状であり、かけがえのない勲章だった。
 明日の朝電話を入れて、家に帰ろうと決めた。父の目を真正面から見据えて話せそうな気がした。自分はこうしたい、こうなりたいと、胸を張って主張できる。そんな気がした。

「ありがとう、救われたのは俺かもしれない」
 さっきそう言った誠二の目は潤んでいた。その涙を拭いもせずに彼は外に飛び出して、そのまま駅へと向かった。そう、真理の住む街へと。

「真理さんが縒(よ)りを戻してって、頭を下げてくるまでそうして待っているつもり? それって男らしくない。誠二らしくない。もっと言ってもいい? ずるいと思う。フェアじゃないわ。彼女の気持ちを大事にしてるつもりかもしれないけど、それって実は誠二が、自分を大事にしてるだけだと思う」
「京子、お前ってやつは...」
「違うなら、その手でぶっていいよ。わたし、半端な気持ちで言ってないから」
 好きだと叫んだのと一緒だ。胸がドキドキした。
 答えを待つ間のほんの一瞬、誠二が真理を叩いたシーンが脳裏を過(よ)ぎった。
「...いい女だな」
 誠二の「ありがとう」はその後の台詞だった。
 ぶたれなかった頬が、膨(ふく)れてそこに残った。

 自分の存在が自分以外の誰かに影響を与える。それは私にとっては驚きであり、生まれて初めて味わう大きな喜びだった。
 私は、自分を「旅」へと送り出した大きな力に感謝して、正座したままの姿勢で目を閉じた。
『涙、ずいぶんたくさんながしたなぁ、ちっちゃい子じゃあるまいし』
 思わず漏れた微笑が、一気に全身を温めた。
 ......
 静寂の中で、桶胴がギシッと小さな音を立てた。
                    (完)  
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