くぐもり声
                   馬場 駿


 その日のための初日
 
 苔生(こけむ)した広さ一平米程度の岩が目の前に横たわっていた。ただ一番上の部分は、絨毯のような感触とは程遠く、垂らした白ペンキが平らに広がったとしか言えないもので、岩肌の凹凸が掌にそのまま伝わってきた。しゃがんで微妙に違う白の境目をジッと見詰めていると、淡い灰白色の何かが目の前を落ちていく。
『え? もしかしたら』と、急いでピントを合わせると、紛れもない――雪。笑顔でもあげようと思っているうちに、岩の白に吸い取られて、消えた白。小さな湿り気だけが、ぽつん。
 もうひとひら降りてくる、きっと。
『見上げるな、空がバックだと雪の白が汚れる』
 ゆっくりと左掌を差し出してみた。案の定、雪は待っていたかのように、ふわりと着地した。一瞬結晶が見えたような気がした。温かい俺の手が雪を――消した。今度は跡形も無く。水気さえ残さず。
 
 同じく二日目
 
 一尺ぐらい積もった雪が黙(もだ)している。気が遠くなる程の数で、億兆の単位で結晶がここに集まっているのに。
『気が狂いそうに、静かだ』
 何か突き刺してみようと思った。雪の似非(えせ)お上品は醜い。里山の作業小屋だったらあるはずだと思い、半周したところで平スコを見つけた。手にとって振り上げると、目の前の雪が避(よ)けて左右が盛り上がったように見えた。
『ありえない』と頭を強く左右に振った。次いで突き刺して雪の傷口を抉(こじ)る。すると、確かに、キュッと泣き声がした。裂け目の右側に泥が付いた。左側は赤茶の錆色に染まっている。
『汚い――悪かった』
 雪に謝ると、何かに憑かれたように、ウインドヤッケの裾でスコップをこすり続けた。
 二度目は滑るように雪に入った。平スコの柄を少し揺すってから引き抜く。目を見開き、ヒッと息を吸った。雪の裂け目がピュアな水色に染まっていたのだ。『何と澄みきったブルー......』
 愛おしげに右手をさし伸ばし、蒼(あお)に触れようとしたそのとたん、雪が掌を挟んだ。親指だけが丸ごと雪の外で蠢(うごめ)いている。
 慌てて反り返り、全身で右手を助けようとした。
 ......抜けた。
 その瞬間、誰かの絶望的な絶叫が雪の山野に谺(こだま)した。誰かが自分だとは思いたくなかった。
 親指以外の四指が雪に奪われていたのだ。

  動いた三日目
 
 小屋を出て五十メートルほど雪中を歩行しただけで全身が汗みどろになった。
『なぜこんなに道が狭い』
 雪を積んだ篠竹が重さに負けて、全員がお辞儀をしているからだと、すぐに気付いた。目の前の一人が耐えかねて、頭の上の雪を振り落とした。曲がっていた背は真直ぐに伸び、勢い余って隣の背高な仲間を叩いた。
 細かく分かれ飛び上がった雪が、風に乗ってやってくるのを、避(よ)けもせず顔で受ける。
 ――「これ長野じゃ美篶(みすず)っていうのよ」
 急に京(みやこ)が頭の中で喋った。『美篶刈る信濃の国の千曲川』。そこから先の歌詞は知らない。形のいい唇を自在に動かして、京は澄んだ声で唄った。
 見惚れたときから先は、記憶が欠落している。
 ――気が付くと、篠竹が雪を振り落とす連鎖は、遥か彼方まで続いていた。飛散した雪の子らが景色を切り取って、霧の中へと誘(いざな)ってゆく。
『引き返そう。先が見えない』
 踵を返す俺の目に、熱い涙が噴き出した。
『食い物なんて必要ないんだよ、バカが』
 
 予想外の四日目
 
 深さ一尺の雪の上を普通に歩ける。氷点下五度という気温が積もった雪を凍らせているからだ。
 静けさにも音がある。暗く沈んだものを抱え込んでいない人には聞こえない音だ。
 夜空には無数の穴が開いている。心清らかな人たちはそれを星と呼ぶ。
『月も? いや、月はどこまでも月だ』
 しかしそれも太陽が出るまでの主役。空に間違って居並ぶとき、月は恥じ入って赤くなるから。
 不覚をとって滑った。
 大事に持っていた便箋の束が氷の上を走る。
 回る。冷たく固まった雪の上を。ジタバタして、イヤイヤをして、グルグルと手を回して。
「燃やせ、未練の紙くずを」
 誰かが言った。いや、自分だ、ごまかすな、俺自身だ。
『もう手に持ってるんだよ、偉そうに指図するんじゃねえ』
 ライターが光を、くれるんだ。心を縛り、絶望のどん底へと突き落とす、美しい文字からの開放を。
 火がつくと、紙は黒ずんで縮み、紫煙を放って、苦しみだす。爆発的な炎上はそのあとだ。自ら燃えることで宙に浮く。飛び立つのだ、手紙が。京(みやこ)の香りが。優しさが。
 手紙を重ねておいて横から火を放つ。
 何枚も何枚も、燃えて飛ぶ、を繰り返す。舞っているのは紛れも無く紙の上の恋。
『よし、一緒に回ろう』、立ち上がって、『立ち上がってだ!』。
 叫びながら、突っ伏して泣く。涙が止まらないのだ。何が哀しいのか、俺自身が分からない。
 白く冷たい雪と赤くて熱い炎の狭間に。いま、この真っ黒な景色の中に――独り、俺がいる。
 
 まだ五日目
 
 急に腹が痛み出した。食糧が切れて二日目になる。登ってきた当日は昼、夜ともコンビニ弁当を食った。二日目と三日目はチビあんパン一個とウーロン茶のみ。食あたりをするほどのものを胃に入れていないのだから、考えられるのは「冷え」か心因性だ。
 予想外のことだったが、幸いにも小屋には寝具があった。おそらく長期に亘る森林の下刈(したが)りか何かで、休息用においていったのだろう。捨ててもいいという感じで粗末なものだったが、氷点下で体温を保持できるだけでも有り難かった。
 午後になって熱も出てきた。それでも今のうちならまだ、歩ける。
 近くの小さな沢に下りてタオルを濡らし、コッヘル
に更新用の冷水も入れた。
『え、誰?』
 ふっと人の気配を感じて、振り返った。
――「いまね、お魚がいた。小さな岩のところ」
 膝に掌を当て川面を覗き込む京(みやこ)の髪が、雑木林を潜(くぐ)ってきた風に揺れている。
 「山女(やまめ)だな、だとすると、枯葉の塊(かたまり)の下に隠れてる」
「ほんと? 獲れたらいいね」
 真直ぐに背を伸ばした京。その顔が、俺の数十センチ先で微笑んだ。瞳(め)がきらきらと輝いている。
 撓(しな)う篠竹につかまって、右足を斜面に、左足を小岩に掛けて、両掌を、枯葉をつかむ形にして下ろしていく。
「逃げちゃうよ、そんなに近づいてぇ」
「シーッ、山女は見つかりっこないって思ってるよ」
「うそばっか」と声を殺して、弾むように笑う京。
 水に浸(つ)かった枯葉を丸ごと掬(すく)い、高々と放り投げた。
「あー、お魚ぁ」
 抜けるような秋の空をバックに、尾鰭(おびれ)を大きく振って山女が飛んだ。
 ――体中がゾクゾクして、思わず額に手を当てた。
『立ったままで夢かよ。熱のせいだな』
 せせらぎが急に耳に響いた。どうやら嘲(わら)われているらしい。

 下痢が始まった。トイレが無い小屋なので、入り口の扉の脇に雪を固めて和式の便器を造った。もちろん囲いも糞溜めもない。
 ろくなものを食べていないので水のような便しか出てこないが、一人前に体力の消耗は、一回ごとに激しさを増した。
 食べ物も、薬も無い。看護してくれる者もいない。いや、俺がこの小屋に居ることを誰も知らないのだ。出来ることといえば、自分の治癒力を信じて、傷ついた獣のようにじっとして、体力の温存を図ることだけだ。そう、眠ることだけだ。
 その大事な眠りが、しばしば下痢で妨げられた。
 意識が遠くなる。眠りなのか、気絶なのか。それとも『このまま死ぬのか』。
 ふっと笑いが来た。可笑しかった。
 死にに来たのに望むものを恐れてどうする。
 ――丸ノコの回転音が聞こえる。木材を刻む高い音に変わる。そのとき俺の目に、長い角材を持ってよろけながら傍を通るアルバイトの姿が映った。
「バカ、危ないったら、おい、学生! 離れろ学生!」
 ほんの一瞬のことだった。顔中に血しぶきを浴び、あとから右の指先に激痛が走った。心臓の弾ける音が聞こえた。救急車のサイレンを聞いたのは、それからずっと経ってからのような気がする。
 よそ見をして木材の切断を続けていた俺。
 結局利き腕の、親指を除く四本の指を、第二関節から失った。
 覚えていないのだが、俺は地べたを転がりながら、飛び散った指先を捜していたという。痛みに耐えかね、泣きながら、何かを喚(わめ)きながら。
 同僚は病院で同情を露(あらわ)にしてそう言うと、
「なあ壮太(そうた)、ミヤコってお前の彼女か。何度も何度も呼んでいたぞ」と俺の顔を覗いた。 
――『ああ、宝だった』
 腹がまた、グググルッと不気味に鳴り出した。
『もう過去形、だけどな』
 布団を跳ね除(の)け、外の「トイレ」を目指して扉へと走り出す。と、その瞬間、足がもつれて前のめりに倒れた。
 股間が生暖かくなってきたとき、京とは別の世界に心を移し、大声を出して嘲(わら)った。
 
 何日目か
 
 外が明るくなってから目が覚めた。
 どれくらい眠っていたかは分からない。素早く起き上がる力がないことは確かだ。それでも肛門の騒ぎは大分治まってきている。
 ブリーフもズボンも汚してしまった俺は、直に半ズボンを身につけている。布団の中で自分の男をしっかりと握ってみる。
 京(みやこ)の女の襞(ひだ)の手触りを想う。一度も触れたことの無い柔肌の温もりを想う。
『抱きたかった。実際にこの手で』
 この手で、指の欠けたこの手で? 
 飛び散って赤い斑点になった自分の血。血の雀斑(そばかす)をいまも洗い流せずにいるこの顔では、京の唇さえ奪えない。もう手紙もかけない。あなたが褒(ほ)めてくれた、好きだと言ってくれた、綺麗な文字が、一文字も書けない。唯一残されていた糧を得る仕事、木工もできない。家具も家も造れなくなった。
 自分の歯で、強く唇を噛んでみる。まだ生きている証か、淡い塩気の、血液の味がした。
 ――「......壮太、あなたは言いましたね、目が色弱で大好きだった絵を捨てたって。それでも何かを創りたかったから高校を出てすぐに、木工の親方のもとに弟子入りしたって。それなのに、事故で指を失って、今度は生きていくためのジョブを、昔の宮大工にも負けない仕事をしたいという夢を、捨てるって?......それってずるいよ、自分の能力に対する裏切りだよ。絵を見失ったときに次の目標を立てたように、壮太なら今度もきっと何か見つける。京はあなたの、ぜったい負けないっていう心の底力を信じているから、あなたが好きだから、同情なんかしない。いますぐ飛んでいって一緒に泣きたいけれど、そんなこと、しちゃあいけないんだ。そう思う。今度のお給料でノートパソコン買って贈る。だから、苦手だなんて言わないで、キーボードを心で叩いて、お便りをください。あなたの元気な声、待っています。
 壮太の居るところから少し遠い長野から。みやこ」
 ――『さすがペンパルだよな。距離を置いたんだろ、京。結局......』
 そこから先は、口にしてはいけない。たとえ心の中だけの声でも。いま一番、いや、俺の人生で一番、言葉にしてはいけないことなのだ。
『やっぱり京だけは、最期まで信じていたい。そうでなくちゃ俺って、寂しすぎる』
 水洟が鼻から垂れた。溢れ出た涙が、それに追いついて重なった。

 目覚めた次の日
 
『――まだ生きてた』
 枕もとの二リットル入りのウーロン茶がカラになっていた。コッヘルの水も無い。タオルの水気も無かった。砂漠を歩いた後もこんな感じなのか。唇が乾ききっていて、上下で擦(こす)り合わせるとザラッと音がした。胃も腸も空っぽ。空腹の音さえ出せないだろう。
 不思議に想いが透き通ってきた。
 小屋中に満たされた冷気すら俺の周りには寄って来ない。そんな気がした。上半身を覆っていたウインドヤッケを摘まみ、中の匂いを嗅いでみる。鼻が曲がりそうで、顔を顰(しか)めた。
『百年の恋も興醒めだな』
 心が嘲(あざわら)ったあとで『フン!』と言った。
『女もいねーくせに』か。
 のそのそと起き上がると、太腿(ふともも)から下を目がけて寒さが襲ってきた。慌てて登山用のレッグウォーマーを穿(は)く。
 両足の脹脛(ふくらはぎ)までが覆われた。
 入り口の扉が外の強い光で縁取られている。
 予め目を細くしてから体ごと押してみた。
『......』
 すでに日は高かった。
 下り傾斜の径(こみち)を挟んで、幹から梢(こずえ)に至るまで、全身を雪化粧した落葉樹が並んでいる。どこからか来た大型の野鳥が止まりきれずに、枝に積もった雪に突っ込んだ。羽ばたきが創った微細な雪片が柔らかな風に乗って宙に舞う。葉も花もつけていない冬木立が、まるで満開の桜のように、その妖艶さを競っている。近いものは、陽光を受けて結晶を輝かせ、花ではなく雪であることを知らせてくる。波打つ白の濃淡の彼方にある空の色はどうだ。どこまでも均一な、耀(かがや)きに満ちたコバルトブルー。心で引き寄せれば、掴み取れる気がする。
――「満開の桜ってね、雪積む木って言うの。だけどこれ、桜をほめてるの? それとも雪? 壮太はどっちだと思う」
――『そういえば京(みやこ)、文学部出だったっけな。桜を目の前にして言うんだったら雪が格上(かくうえ)に決まってるだろ』
 俄か雨でこの小屋に一緒に避難したあのとき、確かワンゲル部のもう一人の女学生は桜だと言い張った。
傍らで微笑していたのが京。この子、頭も気立てもいいとそう思った。「私は雪が格上だと思う」と、言葉では無くて微笑(ほほえみ)で知らせていたから。いま極上の景色を味わいながら、それは確信に変わった。
『花もなく葉っぱもなくて美しくなれる木々、か。そんな道もあるかもな』
 京は俺にとっての雪。きょうのこの雪。
『だといいな。もう、遅いけど』
 とりあえず水だ。脱水症状が出ていると自覚して、沢へと歩き出した。
 とたんに、思わず苦笑した。
『何だ、生きようとしてるじゃん』
 滑っては転び、吹き溜まりの雪に足を取られては前にのめった。そのたびに自分の情けない格好を見て雪を叩き、大笑いをした。
『高熱も下痢も身体が勝手に治しちまった』
 もう失うものは何も無い。これを笑わないでどうする。顔色もかなり酷(ひど)いに違いない。たぶんムンクの「叫び」状態だろう。
 這いつくばった後で立ち上がり、雪を払い落としていると、前方に人の気配を感じた。幻を見た。いや、本当に人が見えて、目をこすった。
「やっぱりここだったのね」
「みや、こ?」
 一体何日声を出していなかったのだろう。久し振りの発声が、彼女の名、京だった。なぜここにいる。なぜ俺がここだと判った。きっちりと山歩きの格好までして。出逢ったあの日と同じだ、山スカートの色まで。
「何しにここに来たのぉ...壮太」
 近づきながら半ベソをかいているのが分かる。
 胸が張り裂けそうになった。
 言葉が口をついて出てこない。
「家電(いえでん)にかけた...家出したって、おかあさんが...どこにいるか捜してって...泣いてた」
 汚い自分の顔が、さらに歪んでいる。そんな馬鹿なことを、ゴトゴトと心音を大きくしながら思った。
「ここよね、すぐわかった。わたしがいまの壮太なら、同じ発想をするもの」
 立ち止まった、京。
 近づけない俺。
「生きよ、一緒に、ね?」
 そう言ってゆっくりとうなずく、京。この上もなく、きれいだと思った。
「......うん」
 急に噴き出した涙で、京の顔が揺れた。
 それが笑顔だと分かるまで、心も揺れていた。
 立ちすくむ二人の間を、雪の子が風に乗って、騒ぎながら通り過ぎていった。
 



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