優しい姫鼠


                  馬場 駿



 午前二時、寝静まったホテルの階段を、一階から三階まで、泥棒よろしく抜き足差し足で上る。塗装のニスが長年月を経て光沢を失い所々剥げている手擦りに、左手を添えながら。いつものように、戻ったらすぐに眠りに入れるよう、頭や身体を覚醒させない工夫をする。薄目を開ける程度で歩く。手足を動かす範囲を最小限に食い止める。
『おしっこするのも大変ね、毎日、毎晩』
 いつの間にか並んで上っているココがクスッと笑った。細かな水玉模様のパジャマの上に、オレンジ色の綿入れを着込んでいる。指先だけが覗いている袖口が可愛い。
「ついてくるんじゃないよ、これでもまだ男だ」
『そんな心配してないもん』
 そう言いながらも、素直にココは消えた。
 踊り場に佇んで自分の短い影を見た。ついこの間までは、もう少し長かったような気がする。
「たしかにもう、放尿器官でしかないな」
 鼻先で自分の男を嘲ってやった。 
 ようやく枠が歪んだ木製のドアに辿りつき、油の切れたヒンジが放つ異音に眉を顰めつつ、自室に入る。共用部を歩く際のマナーとして着込んだジャージ上下をのそのそと脱ぎ、下着のまま通信販売で購入した折りたたみベッドにスルリと滑りこんで、睡魔の再到来を待つ。引越当初は夜一回で済んでいたこの一連の「作業」が、このごろでは二回、三回と次第に増えてきている。症状が悪化しているということか。夢を見ているときは熟睡していないのだと主治医は言うが、いまは熟睡すること自体が夢になっている。一時、尿瓶を使った。階段を昇り降りする手間はなくなったが、部屋のナツメ球の下で一物をつまみ、瓶にチョロチョロと音をたてて尿を出している自分の姿が侘びしく、ほんの数日で止めている。
 幸いそんな場面をココに見られたことはない。ただ、見られたらと、そのときの惨めさは十分意識した。
 小さな倉庫のような部屋に移って二年になる。著名な観光地に在るのだが、とりわけ辺鄙なところにホテルは建っているので、従業員はそれでなくとも住み込みが多い。加えて、若い力を借りて活気を出すという狙いから、辞めた従業員の補充は二十五歳未満と採用基準を変えた関係上、徐々に近隣から通勤している年配者が減って、独身寮の方が満杯になった。総務担当なので、空き室皆無の状態下で採用した若者二人のために、住みなれた城を明け渡さざるを得なくなった。そういう事情だ。この二年の間には当然退職者も出て、何度か正規の寮に空きができたのだが、すぐに来るであろう引越しの煩わしさが嫌で、部屋にトイレが無いという不便に耐えている。
 しっかり閉じた目を時々開けて、周囲が暗いことを確認する。なぜか眠気を催さない。早晩永眠できるのだから無理に眠らなくてもいいはずだが、焦れて、傍らに置いた腕時計を手にする。針や数字が見えるわけも無く、結局起き上がってプルスイッチの紐を手探りし、部屋の真ん中にある灯りを点ける。午前三時。すでに一時間も夢現どっちつかずの自分の中に居たことになる。「よいしょ」と声を出して椅子に座り、机上のノートパソコンを端に寄せて、灰皿を引き寄せた。ホテルの名入りライターを手にしてから気付く。『ああ、やめたんだったな』と。それでも、残っている古い吸殻から長めのものを拾って、唇に挟んだ。火をつけた後で、無意識に首の付け根を揉んでいる。うっかりすると、コト、コトッと凝りからくる音すら聞こえる。次いで両の手を頭の後ろに回し、拇指で耳の後ろのツボを圧した。これがすこぶる気持ちがいい。
『年を取るとみんなそんなことするんだ』
 ハッとして振り返った。回転椅子なのだが、顔が先ず背後の壁に向かい、揃えた足が少し後れて追いついた。またココだ。今度は声だけだが。
 半年前に亡くなった従業員の北島鼓のことを皆、「つづみ」と呼ばずにココと呼んでいた。独身寮で身籠り、昨夏の終わりに多量の睡眠薬を飲んで、四ヶ月の胎児と一緒にあの世に旅立った十八歳の、最期まで不思議さが漂った女の子・・・。比較的寡黙な子だったが、私の何の気なしの仕種をとらえては、微笑みの中で、からかうような言葉を何度か吐いた。
 ココは細身だが、小顔で色白、撫で肩に柳腰と、年令の割には曰く言い難い色気があって、ホテル内での存在感は群を抜いていた。特にレストラン係の制服を着た後姿には、もう色も恋も卒業したはずなのに、時として仕事中にもかかわらず見惚れたものだ。
 あの日の朝――――
 いまどきの若者には珍しく、ココは入社以来一年、一度も遅刻をしたことがない。他の者なら電話で怒鳴って済ませるところを、『変だな』とすぐに、直接部屋にまで足を運んだ第一の理由はそれだった。
 ノックをして再三声をかけても応答が無い。半ばためらいながらもマスターキーで開錠し、部屋の中に入ると、甘ったるいお菓子の匂いが先ず鼻腔を突いた。ベッドの方を見て一瞬息を呑む。淡いピンクの掛け布団から、真っ白なココの顔が覗いている。その耳元にうずくまっていた小さなグレーの塊が、急に跳ねたかと思うと、恐ろしいスピードで窓際の床置き型空調機の後ろへと走り去った。寮に住み着いている姫鼠に違いない。
「北島、どうした? 具合でも悪いのか?」
 ドアの外にいるレストラン係の若い男性主任を意識して大声を出し、踏み込みから座敷に入ったとたん、小さな震えを覚えて立ちすくんだ。微かに死臭らしきものを嗅いだのだ。目を背ける様にして視線を床に落とすと、ベッドの脚で転がるのを止められたのだろう、空になった薬の小瓶があった。白い錠剤が一つ、瓶の中身を知らせる役なのか、その傍に居る。
 顔を上げ、放心状態でいる間に、少しだけココの唇が動いた。
『ごめんなさい、先に眠っちゃって』
 言葉がそのまま白い息に変わって空中に淀んだ。そんな気がした。
「冗談だろ、ココ・・・」
 声が詰まった。

「この部屋の位置関係がひと目で分る平面図みたいなもの、ありますかね」
 四十絡みの警察官が、本署に連絡をとった後で言った。
「これでいいですよね」
 消火器や消化栓の設置場所が刷り込まれている全館案内図を手渡しながら言った。
「用意がいいというか、変じゃないですか、佐伯さん、でしたよね・・・」
「あ、いや、以前お客様が浴場で深夜に亡くなられたことがありまして、持病の心臓発作で。そのとき警察の方から求められているものですから」
「ああ、そういうこと。失礼」
「官は、その、事件性があると判断されたのですか」
「ふつう誰でも自殺って思う現場だよね、これ。どうして事件性って言葉が出るのかな」と訝る警官。
「あ。まあ、仕事が総務ですので」と、顔を覗き込まれた私は慌ててそう返した。
 何故って、聞くほうが可笑しい。瑞々しい肌、可愛い顔、すらりとして綺麗な肢体、まさに眩しいほどに輝いている若い娘が、自分から死を選ぶものか。そうは思ったが、口に出せば「他殺」だと断定することになる。そうできる根拠は何一つ持ってはいない。ただ、他殺で無いなら、ココの死は、到底現実として認めることができない。
「つまり、ホテルの対面が一番てことですか、なるほど」と警官は、口許で小さく侮蔑の笑みをつくった。
 詳しい経緯は知らされていないが、結局警察はココを行政解剖に付した。
 後日警察からココが妊娠していた事実を知らされて、つい『勘弁してくれよ』と舌打ちをした。また一騒ぎが起こると思ったのだ。いや、違う。そうなら同時に流した涙の説明がつかない。
 ココが自室にフロントの小栗博也を入れているという噂は、事件の数ヶ月前から確かにあった。最初、それを、悪意に満ちた中傷と受け取った。そういう種類の女の子ではないと信じて疑わなかったのだ。まだ子どもだとか真面目一本とか、そういう理由ではない。外側は柔らかく見えても、何というか、誰も自分の中には立ち入らせない強さのようなもの、それがあると感じ取っていたのだ。蒼い性欲を愛と勘違いしたり簡単に恋に恋したりしないタイプ。ココの印象は或る意味で、私の中では不動のものだった。
 警察によれば、胎児は三ヶ月ほどになっていたという。お腹が大きく膨れているわけでも無く、悪阻があってやっと周囲が気付く、「三ヶ月」とはその程度だと、年配の女性社員は口を揃えて言った。別れた妻信代の二回の妊娠時の経験からも、それは十分納得できる。誰も気付かなかったと、それでいい。
 ところが博也が悪びれもせず、さらりと言った。
「僕は知ってました、ココから聞いてましたから」
「なぜ報告をしなかった。届け出をだ」
「関係ないと思って。個人的なことだし」
「どこをどう押すとそういう理屈になるんだ? 二人とも、アルバイトだろうが期間社員だろうがうちのホテルの従業員だろ、しかも寮に住んでるんだろ」
 うかつにも苛立ちで声が震えた。
 こういう場合会社は、男女の双方を退寮させるか、一方を転勤させる措置を採る。
「警察には言ったのか? 関係も含めて」
「事情・・・聴取っていうの? ココが運ばれてった翌日かな、僕の子どもなのかもって、答えた」
「かもって、何だそれは!」
「だっていまの女って誰とでもすぐ寝るじゃん」
 手が先に出た。博也の頬がスローモーションのように歪んだ。端整な顔が醜く変わった。もちろん、殴る前にだ、後ではない。・・・それはいい、確かに卑怯な台詞だ。しかしここは少なくとも殴る場面ではない。
抑えの利かない自分を恐れて、この日の博也との面談は直ちに閉じている。
「ココ、一途に愛して、恋してって感じでしたよ、それはもう妬けるくらい」
「いまどき希少動物よ、あの子。博也でやっと処女喪失。間違いないわ。見た目、遊んでる女みたいだけど意外や意外」
 フロントとレストランの女性社員の「証言」は正しいようだ。さらに二、三のアルバイトに聞いてみたが答えは異口同音だった。
 警察は二週間ほどの「簡単な捜査」の後で、北島鼓は自殺したものと、断定をした。
 それから数日後、就業規則上の処分も視野に入れて、博也を「尋問」した。
「結婚する気も認知する気もなかったのか」
「正直に言うとハイ、です。無理なんです。うち、田舎じゃ旧家で、身寄りの無いココなんて、全く相手にされないでしょうね、僕のカノジョだって紹介するだけでもボロボロになるまで攻撃される、と思う。僕、これでも長男、小栗家の跡取りなんで」
「お前が護ってやればいいじゃないか、聞いてると評論家だな、まるで。とても恋愛の当事者とは思えない」
「恋愛、かなぁ」
「違うのか、ココの部屋に通って、子どもまでつくって。イケメンのお前にとってはただの女遊びってわけか」
「まさか。遊びなら、同じ職場から選ばない」
「ほう、一家言だな、なかなか」
「あったかかった、一緒にいると」
 少し救われる想いがした。
「結婚も認知もしないってこと、ココに伝えたのか」
 自殺の原因に繋がる質問をした。
「言える訳ないじゃん、かわいそうで。最低限の優しさですよ、そんなの」
「優しさねぇ、なるほど。じゃあココに何してあげられるんだ、やれない、できないばっかりのお前が」
「抱いてあげましたよ、できるだけたくさん」
「たしかに最低限の、だわな。無責任に、自分の欲望を満足させてただけだ、結局!」
 何かが音を立てて崩れた。博也を蔑んだその直後に、もう一人の自分が自嘲気味に呟いたのだ。
『偉そうに博也を見下せるのかよ、お前が』
 ――深夜階段を上っていくときに、踊り場で或ることに気付いた。前の壁にも右の壁にも足元にも、たぶん背後の階段にもだが、自分の影が映っている。しかも、濃淡も歪み具合もまちまち。光源の大小、性質が違うからだが、一人の人間が同時にいくつもの影を持っている。そのことに、或る種の衝撃を受けた。
 たしかにあれは恵子が見せた一つの歪んだ影だった。
 勤務先の信用金庫から帰ると妻の姿がなかった。隣の県にある実家にでも遊びにいったのだろうと気にも留めなかったのだが、何の連絡もなく三日も過ぎれば「家出」を疑う。さりげなく実家に問い合わせたが、応対の言葉遣いから察するに、全く不知だった。意外だったのは自分がその間平静に日常生活を送れたということ。恵子の存在はその程度だったのか。まさにそれが問われていたのだと知ったのは、一ヵ月後に配達証明付で届いた離婚届に接したときだった。それでも反省には結びつかず、差出人の現住所に向け、怒りの勢いのまま旅に出た私。降り立った温泉町の駅は、哀しいほどに小さかった。封筒の住所を指差して道を尋ねると、誰も彼もが方向を指すだけで言葉を発しない。
 ようやく辿り着いたあばら屋には表札すら掛かっていなかった。出てきた恵子は大きな眼を開けっ放しにして、しばらくの間動かなかった。まさか訪ねてくるとは思わなかった。そんな感じだ。
「こんなところで何してるんだ。自分が何をしているのか分かっているのか!」
 恵子の目許がピクッと動いた。
「ここでいいですか」
「うん?」と応えたものの、意味に気付くまで数秒を要した。
「入れてももらえないのか、六時間もかけて探しに来て門前払いか、ええ! 恵子お前、何様の」
 無理やり恵子を押しのけて、中に足を踏み入れた私は一瞬にして凍りついた。十二畳はあるだろうか。全体が見渡せる一間に、場違いなダブルベッドが居座っている。その四隅に設置されたカメラ・・・。壁に掛かっている、明らかにその筋の人と分かるスーツ・・・。
「そういう、ことか、恵子」
 名前のところで視線を移すと、涙を溜めた恵子がこくりとうなずいた。
「暴力、ふるわれてるのか」
「ううん、やさしい人よ」
「優しいって、こんなことにお前の体を使って辱しめているのにか」
 顔や体に傷をつければ商売にならなくなるからだろう。そんなもののどこが優しさなのか。
「必要とされてるわ」
「え?」
 路地を走ってきた風が、恵子の髪を揺らした。
「今のわたしにはそれが一番なの・・・」
 黙って瞬きをした後で私は後退りをして敷居を跨ぎ、向きを変えて足早に歩きだした。
 背中が、追ってくる恵子を感じている。止まるとぶつかるように後ろから抱きついてきた。
「恵子、お前・・・」
「お願い、離婚届、出して」
「そんなに好きなのか」
 ヤクザが、いや、セックスが・・・と心が続けた。
 しばらくの間、背中が大きな震えを捉えていた。
 恵子を救い出そうとしなかったのは何故だ。もしかしたら、救助を乞うた窮余の一策が離婚届ではなかったか。または、旅先でトラブルに遭っていて、夫を巻き込まないためのそれだったのではないか。唐突に見える「歪んだ影」は、実は私への深い配慮。いまならそれを解釈の選択肢に入れることが出来る。だが、あのとき帰宅後に私がとった行動は、離婚届を有効に仕上げることだった。じわじわと迫ってくる恵子のいまの「男」への恐怖の中で――。
 思い出したとたん、博也を責めるパワーは減衰し、対峙していることすら苦痛になった。
「もういいですか、行っても」
 博也が、急に押し黙った私を覗き込むようにして、静かに言った。
「博也、お前妊娠を知った後で、別れ話を持ち出したりしてないか」
「そんな、やさしくないこと、しないって!」
 立ち上がった勢いで博也は、両手で自分の太腿をポンと打った。
「そうか、やさしくないか・・・」
 ゴボゴボと息苦しい音を聞きながら、私は自分の弱さの中に沈んだ。

 ココの居た部屋は、当然かもしれないのだが、いまだに誰も使っていない。時折誰かがドアの外に花束を置くので、周囲のものは否応無しにココの記憶を、従って自殺の記憶を、その都度更新してしまうからだろう。私にとっても、誰も入れずにそっとしておきたい部屋ではあった。
 久しぶりに、勤務時間内に職務として中に入った。寝具はきちんとたたまれてベッドの上に置かれている。掃き清められたはずの畳の上には、薄っすらと埃の白い膜ができていて、振り返ると靴下の足跡がしっかりと見えた。ふと、片隅に気配を感じて視線を移すと、姫鼠が一匹、息を殺してといった風情で、こちらを見つめている。
『まさかあのときの・・・お前か?』
 心で発した言葉に、姫鼠がうなずいた。いや、首を動かしただけかもしれないが、タイミングはぴたりと合った。
「半年も経つのにお前、ちっともでかくならないんだな。喪に服しての何とか断ちでもあるまいに。ま、小さいから姫って言うのかもしれないが」
 二、三歩、視線を私に向けたまま彼が動いた。彼、とは言い切れないが、ココを慕っていたとしたら当然雄だろう。
「・・・ そうか、博也があんなじゃあ、ココはお前に話しかけていたのかもな、いまの僕みたいに」
 心がココの寂しさに共振した。
『そうよ、いまもおしゃべりしてたの』
 私は全身に痺れを感じた。しかしそれは不快なものではなかった。
「ココ、博也の本音は知っていたんだろ? 怨んでの自殺か、やっぱり」と声のする方に振り向いた。
 パジャマと綿入れ姿のココがベッドに腰掛けていた。
揃えた膝から足先までの長さが凄い。これが歩く後姿の美しさを作っていたのか。
「好きな人と結ばれて、子どもが出来て、こんなに幸せでいいんだろうかって思いながら抱かれてた。だから、ずっと幸せでいるためにお薬飲んだの」
 博也を罵ったり、怨んだりする時期がきっと来る。もうすぐ来る。それを知っていたことになる。そうしてしまう自分を見るのは耐えられないだろうことも。
 フッと背中に、後ろから抱きついてきた恵子の重みを感じた。恵子の離婚届は、自ら心の死を招く薬だったのだろうか。
「いいのか、いや、良かったのか、命二つ。そのためだけに犠牲にして」
 一番聞きたかったことだ。
『いい訳ないわ・・・でも、赤ちゃんだけ始末するなんて、できなかった』
「博也がそうしろって迫ったのか」
『言わない、そんなこと、彼優しいから。でも、わたしを抱くたびに、泣きながらそうしてくれって頼んでる。ずっとそう感じてた』
「ココ、泣いてもいいんだぞ」
 自分でも妙な返し方だと思った。
『佐伯さんて優しいんだ。恐いと思ってた、何となく』
「こんな年寄り、何が恐いもんか」
 ココが肩をすぼめて小さく笑った。
『こっちに来て分かったの、涙、もう出ないんだって』
「なるほど。ずっと幸せでいるためにそっちに行ったんだしな」
『あ、そうかぁ。そうよねぇ』
 笑っているのに目が潤んだ。次いで水っ洟が垂れてきた。
『佐伯さん、きたない』とココが笑いを引き取った。
 慌てて制服の袖口で鼻を押さえる私。
『ココ、ティッシュ探してきて』と姫鼠を指差したココ。
「何、この子もココっていう名前か?」
『わたしの分身だから同じにしたの』
 どうやらいつも夜中に出会っているココは、分身の方らしい。それにしても鼠にティッシュボックスは無理だろうと、本気で思った。
「すまんな、無縁仏にしてしまって。連絡しても結局誰も引き取りに来なかったんだ」
「いいの、わたしはもともとそういう子なんだから」
 事情は採用後の面談で審(つまび)らかになっている。ココは中部地方の山あいの小さな温泉町で生まれた。母親は芸者で父親は分からない。男出入りの多かった母親の私生活を嫌って中学を出ると家出をし、以後観光地を転々、主に旅館の中番、仲居、ウェイトレスなどをして接客に携わってきた。「十八になるまでやらせてはいけない仕事までやってきたんだね」と言うと、知らなかったらしく驚いていたココ。その都度身元引受人になっていたというから、母親も暗黙の了解はしていたのだろう。ココは笑って「いつもお金払って、なってもらってた」と、急に寂しそうな顔をした。遺骨を引き取りに来なかったのは、費用や代価を支払う当の本人が死んだことで、「取引」が成り立たなかったということか。
「僕もたぶん無縁仏の仲間になる・・・」
 そう、いまは文字通りの独り身だ。
 突然ノック音が聞こえ、カチャッと入り口のドアが開いた。
「課長でしたか、いえね、通りかかったら人声がしたものですから」とフロントの係長が言った。
「で、誰と・・・」と中を彼が窺う。
「独り言だよ、嫌だね年寄りは」
 私はそう応えると、照れ笑いを装いながら踏込みに下りた。  

 山にあるホテルの払暁は小鳥たちのさえずりで始まる。部屋のカーテンの隙間が先ず白み、次いで遮光生地の柄がほんのりと姿を現わす。寮の各所から、ドアが開き、閉まり、施錠する音が聞こえてくる。
 あれからとうとう眠れなかった。いや、そう言い切れる自信は無い。臨終の際にあなたは今まで生きていたと言えるのかと問われ、返答に困る。そんな感じだ。眠りの中でだけ起きていられる自分だっている。
 草臥れたテレビの前の炬燵に入る。袋内コードを手繰り寄せてプラグをコンセントに差し込む。右腰の辺りがピリッとした。床に林立したペットボトルの中から比較的新しいものを選び出し、茶渋で変色したコップにコポコポと天然水を注ぐ。渇ききった喉の求めだ。
 接触不良のリモコンに苛立って部屋の隅に放り投げた。ニュースも天気予報も、もういい。何がもういいのかは分からない。呼吸はしている。心臓も動いている。糞も定期的に形良く出る。尿は多少臭いを伴いながらも頻繁に出る。まだ目も見えるし口も利ける。とりあえず生きている証だ。だから、それでいいのだ。むしろ感謝をし、幸せを噛み締めるべきだ。違う、そういうことではないのだと、真四角になる自分がいる。『生きている』と胸を張るには、もう一つ何かがいるのだ。いまの自分にはそれが無い。死後の自分との境界が曖昧になっている。そう思った。
『あなた起きて、時間よ。遅刻するわよ』
 急に信代の声が聞こえた。
 もうとっくに起きているのに。
「お前本当に産む気なのか。このまま四ヶ月になったら堕しにくくなるんだぞ」
 振り返ると、信代はエプロンを両手で掴んで硬直していた。唇がわなわなと震えている。
『いやです、二度も自分の子を始末させる、そういうところ全然理解できない。わたし独りになっても産みますからそのおつもりで』
 搾り出すような声だった。
「いまのは、どうしても駄目だと言ったら別れる覚悟、という意味か、信代」
『ええ、あなたは子どもが嫌なんじゃないって気が付いたの。そうよ、わたしに産ませたくないのよ、自分の子を。違う?』
「何を言ってるんだ・・・いや、いい。お前がそう思っているんなら、否定自体が無意味だ」
『無意味なのはわたしとの結婚でしょ』
 信代の涙はすでに溢れ流れて、頬を濡らしていた。
 眠りを覚ます信代の決まり文句は、あの日のあの朝を最後に二度と聞けなくなった。
「いくつになったんだろうな」
 女の子で、名前は志のぶだと、だいぶ経ってからそれだけは報せてきた。それも何年前だったか忘れた。離婚が成立した年も、信代が復氏したいわゆる旧姓も思い出せない。未練とは別次元だが、記憶から消した、そのこと自体がこだわりの証だ。まだある。三度目の結婚は、ついに無かった。これもそのトラウマが原因なのかもしれない。
 万一寝坊した場合の押さえでセットしておいた目覚ましがけたたましく鳴った。
 電池が切れるまで、その音を聞いていようと思った。恵子と信代と志のぶとが、揃って非難の声をあげたら、きっとこの程度では済まないだろう。そんなことを思いながら。
 何という皮肉だろう。自分がこの世にいたという唯一の意義が、中絶をさせようとした、つまり殺そうとした女の子、志のぶの存在だとは。
 ついに時計の針が八時を廻った。
 入社後初めての遅刻になるだろう。そう、出勤すれば、の話だが。
「ん?」と、ここで想いが急に走った。ココは自分の死が我が子の死に直結することを知っていた。いや、独りで胎児を死なせないために自死を選択したのだから、むしろ我が子の死に殉じたと云うべきか。独り産んで育てきるという選択が事実上不可能という状況下では、至上の決断かもしれない。それを冷静に分析し、従容として睡眠薬を手にしたのなら、ココは余りにも凄すぎる。大きくて優しすぎる。併せて、博也を苦しめないという効果を期待していたとしたら尚更だ。
 そのとき心のどこかで、自分と胎児の死を哀しんでくれる博也の姿を想わなかったろうか。いや、そうなら自死よりももっと明るい選択ができたはずだ。ココの死後、現実にこの目と耳で確かめた博也の言動はそれを裏付けている。
『そうよ、期待したら憎んだり怨んだりしなくちゃいけなくなる。その方がずっとつらい』
 ワインレッドのスカートから丸い膝を見せて正座をしているココが隣りに居た。
『お薬飲むときにね、博也とわたしの真ん中にちっちゃいめぐみがいて、ほらこっち向いてって、二人で赤ちゃんの笑顔を奪い合って手を叩いているシーンを夢見てたの。そしたら死ぬの、恐くなかった』
「めぐみって名前まで付けていたんだ、ココは」
『うん、博也には内緒でね』
「いつ決めたんだ、名前」
 ココの横顔が一瞬曇った。
『妊娠を知って、彼が喜ばないで困ったような顔したとき、かな。フッと浮かんだの』
 博也には邪魔かもしれないけれどわたしには恵み。そういう意味だと思った。女というものは不思議だ。信代は耐え忍ぶ自分を意識して、それでもしのぶの文字一字を志に変えて命名している。我が子の名を呼ぶたびに、体一つを命二つにしていた頃の自分を想起しようというのだろうか。
 そうだ確か十八だ、志のぶの歳も。だからココが気になったのだ。唐突にそう思った。・・・思い込むことにした。滲み出てくる涙が、その思い込みを熱くする。
 自然にココの肩を抱いていた。はずなのだが・・・ 隣にあるのは空しい隙間だった。
 視線の先にジッとこちらを見ている姫鼠がいる。
「やっぱりな」
 生前のココも、本当の自分を、部屋に通ってくる姫鼠に晒け出していたに違いない。そう思って見ると、せわしなく動かしている口が何かおしゃべりをしているようだ。一括りでネズミといってしまうには惜しい可愛さがある。
「ココ、ありがとう。おかげで忘れかけてた自分に還れそうな気がする」
 姫鼠のココはキョトンとした顔をした後、ゆっくりとした歩調で部屋の隅に姿を消した。
 午前九時。初めて遅刻した私を気にする者もいないらしい。部屋のドアは一度もノックされなかった。もちろん電話のベルも鳴っていない。
――すでに、誰からも必要とされていない、か。
 そうだろうなと、自分自身を嘲った。
 必要とされていること、『いまのわたしにはそれが一番なの』。恵子の放った言葉の意味が、最期になって、心に触れた。
 もうすぐ階段の昇り降りも終る。降りてもまだ昇れるうちに終らせよう。私は目を閉じながらも、確かな意志の力で、そう思った。     
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